金谷安夫氏著『戦塵の日々』 パート2 テニアン島着任~
Tの事件後、巡検後の整列は、減るどころか
今までにも増して、激しくなり、上等兵のクラスまでが
一等兵を目の敵(かたき)にし、中でも中川一等兵曹が最も過激で、
次が上海の陸戦隊あがりの亀井二等兵曹で、木のバットを
消防ホースのノズルや大型のバール(釘抜き)を変え
振り回していたので兵隊はたまったものではなかった。
バットは新兵の一等兵に集中した。
一等兵は只叩かれるだけで逃げることも隠れることも出来ず、
海軍には駆け込み寺や、母の懐もなく、ただ叩かれるばかりで、
堪え切れなくなれば逃亡するより方法はなかった。
現代のいじめと同様、理屈なしに苛めるために
いじめると言うもので、許されない行為であったが、
上層部はそれを止めようともしなかった。
軍の組織は、組織自体がいじめの体質を持っていたものと思われる。
そのいじめの体質が現在も各所に残っているように思われる。
4月下旬、T一等兵が逃亡して2週間後、2人目の逃亡者が出た。
同年兵のK一等兵である。
TもKも、訓練や作業の重圧に耐えられなかったのではなく、
制裁のバットに耐えられず逃亡したのであり、過重な制裁は
無くすべきであるが、当時の海軍では如何ともならなかったようである。
しかし、組織や権力を利用して苛める者は排斥されるべきであり、
戦場では後ろからも弾は飛んでくると言われていた。
5月初旬になり、『あ号作戦』に呼応し龍部隊は本隊が
ペリリュー島へ進出し、残った半数は派遣隊となりテニアン島に残った。
車庫の兵隊も半数が進出して、中川一等兵曹、亀井二等兵曹、
井本兵長の喧しい下士官と兵長が居なくなり、驚く程静かになった。
Kももう少し我慢できなかったものかと思うと残念でならない。
テニアン島の地誌
マリアナ諸島は、南洋群島の中で
最古の歴史をもち、1521年ポルトガルの
航海者マゼランにより発見された。
その後1565年スペインが統治に当たり、
時の皇后マリア・アンナの名にあやかり
マリアナと名付けられた。
1899年米西戦争の結果、グアム島は米国に
割譲され、その他のマリアナ諸島は
カロリン諸島やマーシャル諸島と共に
ドイツに売却された。
ドイツは南洋諸島の統治に努めたが、
第一時世界大戦でわが国がこれを占領し、
次いで1919年ベルサイユ条約により日本の委任統治領となった。
昭和8年(1933年)日本は国際連盟を
脱退したが、南洋諸島は日本の構成部分として
不可分一体であることを明らかにし、永久に統治に当たることを宣言した。
マリアナ諸島は、南洋諸島の再北端に位置し、東経144度から146度、
北緯14度から20度の間の南北に連なる列島で、テニアン島の中部が
北緯15度で熱帯に属し、島の数は15で、南端はグアム島、北端はグアムの
スペルを逆に読んだモウグ島である。
グアムの北にロタ島、その北にテニアン島とサイパン島がある。
東京サイパン間はおよそ2,400キロ、グアムとサイパンの距離は
250キロである。
テニアン島は、幅5キロの水道を隔ててサイパン島と相対し、
サイパン島と共にマリアナ防衛上の要であった。
隆起珊瑚礁からなる比較的平らな島で、南北約20キロの菱形に
近い島である。
地形が平らなことから至る所飛行場適地で、マリアナ最大の
軍事的価値のある島であった。
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テニアン島は大正3年に日本の委任統治領となり、
昭和5年1月には南洋興発株式会社テニアン製糖工場が竣工し
直ちに製糖を開始した。
島内の開墾も順調に進み島の九割に当たる部分が整然と
区画されたサトウキビ畑になった。
昭和10年には第2工場が完成した。
これによって製糖産業は台湾についで東洋第2位の規模となった。
この頃のテニアン・サイパンは、日本から僅か数日で行ける
最も身近な常夏の平和な島であった。
しかし太平洋の風波は平静ではなかった、南洋群島は次第に
海の生命線として要塞化されて行く。
南洋興発は海の満鉄と言はれる国策第一主義の企業体と変身していった。
テニアンには南洋特有の情緒には乏しかったが比較的農産物に恵まれ、
全島砂糖キビ畑に覆はれていた。
又起伏も少なく平坦な小島テニアンは航空基地には最適であった。
昭和14年ハゴイ飛行場が建設されるにおよび、ここに帝国海軍が誇る
東洋第一の航空基地不沈空母テニアンが誕生したのである。
テニアンは内地から南方前線への中継基地となり、また、前線からの
休養基地にもなった。
帰還した荒鷲は手柄話に花を咲せた、この島の名物の水炊きやぜんざいは
前線の兵士達を喜ばしていた。
日本軍第一一航空艦隊がテニアンに進駐したのは昭和17年
4月18日の事であった。
当時のテニアンは日本の持つ基地の中で最も重要なものとされていた。
海軍のベテラン揃い塚原部隊第一一航空艦隊も暫くここを
基地としていた事がある。
昭和17年8月、アメリカ軍の反抗作戦が開始され
ソロモン群島の戦線がガダルカナル島を極点として膠着するにおよび、
これに呼応して第一一航空艦隊はラバウルに進駐した。
ソロモン海域では制空権争奪の為の熾烈な航空戦が繰広げられる。
アメリカ軍の北上の速度は次第に早くなる、この為マリアナにあった
基地の防備施設や装備はラバウル防衛のために運ばれ、
木更津・テニアン・ラバウルを結ぶ海軍航空路が活発な動きを
見せる様になった。
前線からの情報が次第に暗いものとなってゆく中でもテニアンは
まだ別天地であった。
それから僅か2年後、この島が玉砕の運命に見舞われようとは
誰も夢にも思わなかった。
昭和18年9月30日、宮中に於ける御前会議で小笠原・マリアナ・
カロリンを結ぶ絶対国防線の確立が決定し日本は昭和19年中期を目標に
万難を排してその実現を期する事になった。
だが日本にとって戦局は急速に悪化していった。
昭和18年11月23日 タラワ島日本軍守備隊 玉砕
昭和19年2月6日
クエゼリン・ルオット 玉砕
2月17日・18日 日本のパールハーバーとも言われていた
海の要塞トラック島が完膚なき迄に叩かれた。
2月19日 ブラウン諸島が大本営の発表がないまま玉砕
越えて 23日 アメリカ機動部隊はマリアナを初空襲した。
折からテニアンにあった第二二航空戦隊は、いち早く先制攻撃をかけ、
アメリカ艦載機の進入を阻止した。
当時のマリアナは無防備に等しく、まさに危機一発のところであった。
こうしてマリアナは突如、戦いの第一線となってしまったのである。
日本の大本営はこの時、攻撃主力の方向の判断を誤った、
大本営はマッカーサー大将指揮の南西太平洋部隊のニューギニア北進に
考え合せ中部太平洋部隊がフィリピンに向ったと判断したのである。
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この判断に基づき豊田連合艦隊司令長官はフィリピン南東の
タウイタウイ基地に空母群を中心とする精鋭部隊を集結させていた。
そして西カロリン群島方面に於いて艦隊決戦に持込もうとする
『あ』号作戦計画が発令された。
この時マッカーサー大将の南西太平洋部隊はニューギニアの
ビアク島守備隊を攻撃した。
『あ』号作戦は基地航空兵力に期待する所が多かった為、
ビアク島の存亡は突如重要性を帯びてきた。
従って南西太平洋部隊のビアク島攻撃は日本軍に重大な作戦行動を
とらせる事になった。
そして、アメリカ第五十八機動部隊を計画海域に誘い出そうとして
大戦艦大和・武蔵及び数隻の巡洋艦・駆逐艦をバッチャンに
集結させたのである。
6月11日 まるで海底から沸き出したかの様にアメリカの
大機動部隊が突如グアム島東方300キロに出現した。
海原(うなばら)を埋(うず)める艦船合計644隻、
地上兵力合計128,000名と言う大遠征軍の出現である。
上陸支援部隊は艦船7、護衛空母14巡洋艦12、駆逐艦その他400隻、
高速機動部隊は空母15、戦艦7、巡洋艦7、駆逐艦58隻、
航空兵力は艦載機約3,500機、基地航空機900機という大兵力であった。
又、上陸地上軍はサイパン島方面だけで78,000名であった。
これら空前の大機動部隊は直ちに艦載機をサイパン、テニアン、
グアム攻撃に発進させた。
著しく劣勢の日本航空部隊の損害は甚大で、その反撃も思うに任せず
地上守備軍陣地も多大な損害を受ける結果となった。
6月11日に始まった空襲によりマリアナ群島の日本軍航空機は
3日間で147機を撃破されてしまった、アメリカ側は僅かに
11機を失ったにすぎなかった。
更に6月14日には日本本土からの空路交通線を遮断し、
マリアナ群島を孤立させる為に硫黄島と父島の飛行場が爆撃された。
またこの日、朝やけの空に向かって中国の成都空軍基地を飛びたった
Bー29 63機の編隊は北九州の八幡製鉄所を爆撃した。
被害は軽微であったがBー29長距離爆撃機による初めての本土空襲と
太平洋戦線での敵の攻撃主力の方向を読とれずにいた大本営の混乱と
衝撃は大きかった。
敵機来襲
昭和19年5月 敵偵察機一機、高々度にて飛来。
友軍機応戦せず。1ヶ月後のマリアナ攻略の前哨であった。
昭和19年6月11日午後、西ハゴイの池のほとりのジャングルにて
自動車の整備中に空襲警報発令。
西海岸に退避、敵機は四機編隊で、6編隊24機1組にて来襲。
1列縦隊の攻撃態勢にて急降下爆撃を加えて来る。
我が高射砲陣地目掛けて一直線に急降下して来る。
見る見る機が大きくなる、弾倉のカバーが開くのが見える、
弾倉から爆弾が落ちて来る鼠の糞の様だ、段々大きくなる、
そうなるともう見て居られない。
塹壕に伏せていると、ド・カ・ンと爆発する。
体が地面から吹き上げられている様だ、土砂が降りかかってくる、
鉄カブトに当たった小石が金属音をたてて跳ね返っていく。
1機過ぎた、土煙の中から次の飛行機の投弾が見える、爆発する、
又次ぎが来る、次ぎから次ぎと息もつかせずにやって来る。
全機24機が爆撃を終えると、次ぎは機銃掃射である、機銃掃射は方向が
決まっているので岩の影に居れば大丈夫だった。
夕方空襲警報解除となり、手空き総員飛行場に集合の上、スコップと
モッコで爆弾の穴埋め作業を行う。
湯浅一機は宮崎県出身で工業学校を卒業した電気技術者で、私と馬が合い
仲が良かった。
その日2人でエンジンの修理を行い、初めて我々だけで修理出来たのだった。
また敵機の空襲も受けたし今日は貴重な経験をした1日であり、
内地に帰ったら手柄話が出来ると喜んだ。
今日の空襲で東側防空壕に直撃弾があり3名戦死したという。
テニアン島で初めての戦死者となった。我々は西側防空壕にて1夜を明かす。
この防空壕は現在もその儘まの姿を残している。
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6月12日未明 機銃3点射撃 ドド・ドド・ドド(空襲警報)である、
ビックリして飛び起きる。
銃眼から外を見る、夜は 白みかかっている、今日も敵機が来るのか、
身震いする。
全く嫌な寝覚めであった。西海岸の岩場に避難する。爆撃が甚だしい。
1陣の空襲が終り飛行機が去り暫くの間休みがある、その間に牛岬方面に
退避する。ここには高射砲、機銃陣地がないので爆撃もない、
敵機は頭上を通り越して飛行場を爆撃している。
ここでは爆撃の様子が良く観察できた。
夕方になり空襲警報解除、飛行場に帰り爆弾の穴埋めを行う。
夜遅くなって今日初めての食事が出た。
今日は空腹を感じる余裕さえない1日であった。
6月13日 珍しく今日は空襲警報ない。平常どうり3時起し。
車の退避、仮眠、ハゴイ池のほとりのジャングルにて作業を行う。
なぜか今日は敵の飛行機もいないのに爆発音だけが聞こえてくる。
時限爆弾の破裂かと思ったが、しかし良く聞くとシュルシュルドカンと
シュルシュルという音が聞こえる、昨日までの爆弾の落下音とは
違った音である。
近くで爆発する時はシュルシュルの音が次第につまった音になり
シュシュシュドカーンとくる。
ある時は、シュルシュルシュルと間隔が間延びして次第に遠ざかっていく。
本当に気持ちの悪い音である。
爆撃は飛行機が見えて方向が分かるので安心することが出来たが
今日の爆発だけは始末に負えない。
シュルシュルと音が聞こえると、鉄兜の緒を締めパンの木の根に鼻を
擦りつけて木の回りをグルグル回るのみであった。
陸軍の兵士が海の方から走ってきて『敵艦隊が来た、
海軍の兵隊はラソ山に退避しろ』という。
シュルシュルという音は艦砲射撃の彈道音だったのだ。
今まで考えていた機動部隊撃滅の夢はどこへやら。
只驚き、取るものも取り敢えず、ラソ高地目指してシュルシュルの
弾道音を聞きながら悪夢の中を走る。
途中で海が見えた。
沖は真っ黒で水平線を埋め尽くして艦隊が押し寄せて来ている。
ラソ山の中腹まで登ったとき海がよく見えた。
敵の艦隊は驚くほどの大群である。その数を数えた、
120隻まで数えたがサイパンの沖のものは重なり合って数えられない。
ラソ高地に上がったら敵の状況がさらに良く見えた。
敵の砲撃は飛行場に集中している。艦側でピカッと光り煙が広がる、
暫くしてシュルシュルの彈道音が聞こえてくる、シュシュシュと音は
段々に音はつまって大きくなり、飛行場に着弾しドカンと爆発する。
夜になって敵艦の砲撃の様子が良く観察された。
艦側でピカッと稲妻が走ると砲弾が赤い尾を引きながら近ずいて来る、
砲弾は全て曳痕弾であり、二発並んで来るのが良く分かった。
敵の艦隊は電灯を点けず黒々としている。
発射の度にピカっと稲妻が出て艦のマストがチラっと見える。
あちこちの軍艦が発砲し曳痕弾の赤や緑の火が乱れ飛ぶ、
我が方の損害は莫大なものであるが、この夜景は実に美しく
又身の引き締まる思いであった。
そして、今後どうなるか考えながら暫くのあいだ眺めていた。
『敵艦隊来る』の報を受けた時の驚きは大きかった。
これから先如何なる事態が起きるのか、今までに本で読んだこと、
人に聞いたこと等がこれから現実のものとなって来たのである。
敵の艦隊が来てからは飛行場の穴埋めも出来なくなった。
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日の出神社にて
6月15日~20日 この間は一班7~8名ごとに分散し、
私は日の出神社周辺のジャングルにて、昼間は車の整備をし、
夜は兵員、弾薬、その他の運搬作業を行っていた。
15日の昼過ぎに空襲があったので神社横の防空壕に走った。
民間人が少し居たが広さは十分で、兵隊も数人避難する事が出来た。
付近に爆弾が落ちる度に地響きがして天井の土が崩れ落ちてくる、
女か悲鳴をあげる。
爆撃が終わると機銃掃射に変わった、バリバリ、ドドドッと撃ってくる、
その内の数発が壕の天井を貫いて壁にささりぎくっとした。
一陣の爆撃で敵機は去って行った。
この爆撃で神社も民家もことごとく破壊され、東側にあった食糧倉庫は
三日三晩燃え続けていた。
ある日トラックの車体を支える担(にな)いバネ(車体を支えるバネ)が
折損したので夜になって、飛行場南側斜面の壕に部品を取りに行った。
側(そば)に近づくと中がほのかに明るい、声を掛けると女の声が
返ってきた、そして炊事の最中だった。
ここは日の出神社よりも飛行場に近く危ないので南に下がるように指示し、
私達は担いバネと関連の部品を持って壕を出た。
南に下がるよう指示したがよく考えてみると、日之出神社の様に
建物のある所よりも、かえって周辺に何もない部品貯蔵の壕の方が
安全だったかもしれないとも思った。
陸軍の負傷兵が一人運びこまれて来た。
ラソの野戦病院まで運んでくれとのことである、トラックで途中まで
運びあとは戸板に乗せて担ぐ、途中で血潮(ちしお)が私の肩に流れて来た、出血が止っていない様だ急がねばならない。暫く歩いて到着した。
野戦病院は洞窟の中だった、入り口には遮蔽の為に筵が下げてある、
中では軍医が裸でローソクの光をたよりに治療をしている。
岩の上に一人、岩を背にして一人、あるものは寝て、背中を持たせて、
或いは呻くなど2~30人がいた様で、全くこの世の出来事とは思えない
状況だった。
戦史 あ号 及 い号作戦
サイパン島の戦況は通信状況の悪化により、大本営はその詳細を
掴む事が出来なかった。
だが首相でもあった東条参謀総長は事態の重大化を憂慮し
大本営陸軍部にサイパン増援の検討を命じ、取敢えず上陸したアメリカ軍を
撃退するに必要な兵力と資材を早急にサイパンに投入する事に決定した、
それは『い』号作戦と呼ばれ6月23日までに東京港を出港を目標に準備すると言うものであった。
フィリピン南部にあった日本軍の機動部隊がサイパンに向けて東上を
開始した事は既にアメリカの潜水艦に察知されており、
その針路と兵力は逐一第五艦隊司令長官スプルアンス大将のもとに
報告されていた、スプルアンス大将は日本艦隊を要撃する為に
十八日に予定されていたグアム島攻撃を延期すると共にマーク・ミッチャー
中将指揮の第58機動部隊をサイパン島西南方面海域に進出させた。
日本艦隊は既にサンベルナルジノ海峡を通過東進を続けていた、
決戦は19日と予想された。
19日 ミッチャー中将は日本軍の艦載機がアメリカ艦隊を攻撃する
中継基地としてグアム島を利用出来ない様にする為、先制攻撃をかけた。
折悪しくグアム島には『あ』号作戦に呼応する為に35機の日本機が
待機中であった。
爆撃によって日本側基地航空部隊はほぼ完全に戦闘力を失う結果となった。
アメリカ軍艦隊は潜水艦からの報告で、日本軍艦隊の行動を総て
把握していた、ミッチャー中将は待伏せの態勢をとった。
この為日本軍は200機におよぶ航空機を失い、
その上、完成後1ケ月しか立っていない新鋭空母大鵬をはじめ
四隻の空母を失ってしまった。
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豊田連合艦隊司令長官は敗北を認め小沢部隊に帰還を命じた。
この頃緒戦に偉勲をたてた零戦もアメリカ側の対抗機種の改良により
全能ではなくなり、アメリカ軍がマリアナの七面鳥打ちと呼んだ航空戦で、
日本の精鋭を結集した機動部隊はわづか2日で壊滅してしまったのである。
20日 大本営陸海軍部は地上戦闘の悪化を知った。両者の意見は対立した。海軍部はサイパン陥落が以後の海軍作戦に及ぼす戦略的影響を考え積極的に
海軍残存勢力を総動員しようとした、全航空兵力を結集してアメリカ機動部隊を撃滅して制空権を獲得した後陸軍を投入してサイパン島を奪還すべしと主張した。
これに対し陸軍部はサイパン島奪回作戦には成算がないと判断して
むしろ次期作戦に備えてパラオ、小笠原、フィリピン、台湾などの
後方要域の強化に務めるべきであるいう消極的な反対意見を述べたのである。
6月24日 東京の大本営では重大な決定を下していた。
サイパン放棄である。
大本営発の電報
大本営ハ貴方面ノ情勢ニ鑑ミ海空ノ強力ナル支援ノ
下『い』号ノ敢行ヲ企図セラレタルモ既ニ敵ハ陸上
基地ヲ使用シ従ッテ之ガ輸送確保ノ算極メテ少ナク
『い』号ハ之ヲ行ハザルコトトセラレタリ
然カレドモ大本営ハ今後 有ユル努力ヲ傾倒スベシ
かつて東条参謀総長が公言していたサイパン確保の自信ありは
どうなったのか、参謀本部の自信は海軍にたよっての事ではなく
陸軍の独力で島を保持出来る事を意味していたはずであった。
それなのにかくもあっさり放棄を決定するとすれば参謀本部の公言は
世にも無責任な虚勢と言う事になる。
サイパン防衛の3万人の将兵と2万人の居留民は只その虚勢の為に
砲火にさらされた事になる。
サイパン島の日本軍守備隊はこの放棄の決定を知らされなかった。
それどころか、ひたすら救援を待ち続けていた。
サバネタバス山麓の民家
6月20日 日之出神社付近も爆撃が激しくなり、
サバネタバスの空き家になった民家に移った。
日之出神社以南の砂糖黍畑を、艦砲の黄燐弾で焼き払うのがよく見えた。
2~30メートル上空でパンと小さな音をたてて爆発してキャップが
外れた砲弾からはジョロから出る水の様に黄燐が白い尾を引きながら
先広がりになって畑に降り注いでいく、
暫くするとメラメラと赤い炎を上げて砂糖黍畑は炎え始める。
送信所はテニアン島で最も大きなコンクリートの建物で、
敵の目によく付いたと見え、連日飛行機による爆撃と銃撃が続いていた。
送信所の前の道路を通る度に、昨日は1人、今日は2人戦死したと
聞かされた。その中で通信に当たっていた兵が居たのである。
道路の穴も日増しに増加し、夜車で走るのに苦労した。
遂に道路は走れなくなり砂糖黍畑の中を爆弾の穴を避けて走った。
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日中は絶えず上空で飛行機が我々を監視しているので
自動車は全然使えなかったのでいきおい、作業は夜間にしか行うことは
できなかった。
月夜の晩は気温も下がって涼しく月明りで、ヘッドライト無しでも
十分らくにドライブすることができた。
しかし闇夜ともなればテニアン島には一個の灯火もなく、
ヘッドライトも付けられないし、鼻をつままれても分からない程の
暗さである。
自動車のフロントガラスを取り除いたがまだ道路は見えない、
フェンダーの上に兵隊を乗せて、道路の路肩を白い布を付けた棒で
合図させて走った。
ギアも一速でとろとろ走るので、いつもエンジンはオーバーヒートして
ラジエーターは蒸気を吹き出し、兵隊の貴重な水筒の水を出して貰い
補給する始末だった。
闇夜には排気管が焼けて真っ赤になったのがよく見えて不気味だった。
マルポ菊池さん宅
7月上旬 砂糖黍畑の火に追われて、マルポの井戸の側の菊池さん宅に
同居させて貰った。
菊池さんは『兵隊さんが来てくれて心強い』と言ってくれた。
しかし、我々は銃も剣も持たない丸腰の兵隊であり、自分自身でも心細い
思いをしていたが、安心して下さいと言うより外なかった。
菊池さんの宅はマルポの水源地の入り口にある農家で、野菜造りをして
生計を立てていた。主人は35~6歳ぐらい、八丈島の出身で、
家族は夫婦と男と女の2人の子供とお爺さんが一人いた。
昼間は家族全員ジャングルに避難し、夕方から夜にかけて帰宅して、
農作物の手入れと食事をし、早朝日の出前にはジャングルに
帰って行っていた。
我々10名は、昼間は仕事もなく、家の留守番のような格好だった。
夜は家族が帰ってきて、大人数になり、家の大半を我々が占領して
いたので、家族は台所や付近の板張りで寝る始末になっていた。
菊池さんは良くしてくれた、ある時、どうせ牛や豚も死んでしまうの
だからと言って牛を一頭潰して提供してくれた。
お陰で数日は内地でも食えないビフテキをたらふく食う事が出来た。
菊池さん宅では、飯を炊いて握り飯を作り、前線へ運ぶのが日課だった。
ある日、食糧が無くなりソンソンの港の倉庫に取りに行く事になった。
港は菊池さんの家からほぼ西に約4kmである。
夕暮れになってからトラック1台で出発した。
沿道の住民が防空壕から顔を出して『兵隊さん頑張れ』と
声援を送ってくれた。
彼等の食料は十分なのだろうか。
倉庫群は大して破損もしていなかった、暗がりの中を手探りで米と
缶詰を積んで帰った。
マルポは三方を山に囲まれた凹地であり、南洋興発会社建設した水源地と
ポンプの施設があり、島唯一の給水設備ができていた。
敵艦からは見えず、したがって艦砲射撃を受ける事もなかった。
敵も水源地のことを知っていたのか飛行機での攻撃もせず、
暫くは戦争の最中でも平和な日が続いていた。
しかし、その静けさも長くは続かなかった。
7月7日『サイパン島の日本軍守備隊は総員突撃する』とのニュースが
はいった。
不沈戦艦と言われたサイパン島が陥落した。
テニアンの数倍の陸軍が居た筈である。
デマだろうとの声もあったが、サイパン島のタッポーチョ山は
山頂まで電灯がついている事を思うとやはり玉砕したのではないかと
思われる。
我々軍人も周囲の民間人も只茫然たるのみ。
明日は我が身かと思い武者震いする。
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