平成元年の遺骨収集は、平成元年2月20日より3月13日までの
22日間で、人員合計33名だった。
2月22日 地獄谷の収骨 日本軍はこの谷を地獄谷と呼んでいた。
昭和19年7月7日は地獄の苦しみを味った谷である。
局地戦を繰り返しながら後退してきた日本軍残存部隊は
この地獄谷に集結していた。
6日南雲中将、斎藤中将は総員突撃を命じ、洞窟内で自決した。
残存陸海軍全兵力3,000名は、7日早朝3時を期しガラパンに向け
総攻撃を敢行し、全員遂に玉砕したのであった。
今回我々戦友会班員五名は、サンロケ村から二三七高地の三角山の禿山を
目当てに進む。付近の民家の庭には花が咲き誇っていた。
谷に入るとすぐ治水のダムがあり幅深さ共に一メートル程の枯れ川が
続いている。暫く川を歩き右の側壁に頭骨と腕骨を発見した。
後頭部は破損している、頭と上腕骨の位置関係から河の側壁に
体が埋まっている様子であった。
お骨を損傷しないよう慎重に掘り進める。顔が見えてきた、
口を大きく開けている、まさに敵を睨み咆哮する形相であった、
はたまた最期の絶叫であったのか。
続いて頚椎と胸椎が現れた、これから下の部分も埋まっているに違いない、
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全体が収集できるよう祈り作業を進める。
間違いなく予定の位置に下半身が現れた、大腿骨に続き下腿骨があり、
軍靴を履きそれは地表に出ていた。
陸軍の兵隊に間違いないので認識票がないか再度探したが発見できなかった。45年間ここにいるぞーと咆哮し続けていたように思われる、
長い間放置して済みませんでしたと謝り、鄭重に弔う。
3月6日 私はテニアン島で作業していた。病院の歯科の看護婦さんの
カルメン・サンチェスさんが椰子ガニ取りに行ったとき、お骨があったと
言うので案内して貰った。
10才程の息子もついて来た。送信所の南から東のサバネタバスに向かう。
MDCの牧場で各所にバラセンのゲートがあり、その開閉に息子が
活躍してくれた。途中車を降りジャングルに入る。
看護婦さんは太っているにも拘らず、足が物凄く早い、
ガイドのマニエル・デラクルスさんも足は早いがそれでも追い付かない、
息子が中に入って飛び走りながらあっちだ、こっちだとかけもってくれて
やっと現場にたどり着いた。
10メートル四方の外側には岩の壁があり、大木が葉を茂らせて
空を覆い敵機から見えず絶好の避難場所であった。
カルメンさんは息もつかせず、これもこれもとお骨を指し示してくれる。
はやる心を落ち着かせ収集に掛かる。鍋や釜などの炊事用品と共に
手榴弾や小銃弾なども出てきた。2体のお骨を収容した。
戦友班長の桑山さんから預かったご遺族からの葉書を供養して土に埋める。
桑山さんは毎年遺骨収集のとき、新聞で「はがき供養」を呼び掛け
、ご遺族から送られてきた葉書をサイパンの土に埋めていたのだった。
今日の作業は終わった。看護婦さんと息子を真ん中にして記念写真を撮る。
それにしてもタフな女性だった。
帰途でも息子はゲートの開閉で飛び跳ねていた。
夕焼け空で汗の流れる頬を撫でる風が涼しい。
3月6日 サイパンでは隊員の伊藤さんが、パーパコのラガサットで
発見したお骨の認識票から、後日身元が判明し、お骨は厚生省から
45年ぶりに遺族に返還されている。
中日新聞に記事があったので次に記す。
平成元年8月15日 中日新聞
サイパンで発見一宮の元兵長 玉砕の島から今帰還認識票で確認
遺骨、家族の元へ55,000人が玉砕した第二次大戦の激戦地
サイパン島でこのほど、1人の兵士の遺骨が見付かり、45年ぶりに
愛知県一宮市の遺族の元へ帰った。
遺族たちは15日の終戦記念日を前に『ようやく戦争が終わった』と
故人を思いだし感無量だ。
遺骨は去る3月、厚生省の遺骨収集団が同島中央部のジャングルの中で発見。左脇腹にあった認識票(縦4・5㌢ 横3・3㌢)の番号から
今月初めになって同市萩原町築込、元陸軍兵長片岡義雄さん=
当時(30)と分かった。
片岡さんの妻ゑつさん(70)、長男義治さん(45)ら
遺族六人が今月6日、同省で遺骨を引き取った。
立ち会った職員4、5人も、玉砕(昭和19年7月)から45年ぶりに
家族の元へ戻る遺骨にゑつさんらと一緒に涙したという。
片岡さんの死亡は戦時中、軍から遺族に通知されたが、軍から渡された
白木の箱には、一片の遺骨もなかった。
ゑつさんは『激戦地だけに、骨を捜すのは難しいだろう』と諦め、
その後は毎年、遺影を仏壇に飾って法要。
残された2歳半の長女美代子さん(47)と同7ヶ月の長男、
それに義父(26年、76歳で死亡)の3人を抱えて一家の大黒柱となり
戦後を必死に生き抜いた。
昨年11月には、慰霊のために初めてサイパンを訪れ
『お父さん迎えに来たよ。姿も顔も見えないけど、連れて戻るね』と
戦場の跡をお参り。その4ヶ月後に遺骨が発見された。
それだけに今回の帰還は『私の願いが天国のお父さん通じた見たい』と
喜びもひとしお。
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片岡家では16日午前10時から、自宅で供養を営む。
しかし、ゑつさん、義治さん母子は遺骨が見つかっていない遺族の方を
思えば、手放しでは喜べません』と気づかい、ひそやかにと考えている。
片岡さんの戦友で、同省の遺骨収集に協力している愛知県の
マリアナ献水会の桑山徳一さん(75)=名古屋市東区外堀町=は
『片岡さんはよく頑張って認識票を持っていた。感無量です。
まだ遺骨が見つかっていない遺族の方も、希望を捨てないで待って
いてほしい』と話している。
同省によると、サイパン島では軍人43,000人をはじめ一般人の、
計55,000人が死亡。このうち、26遺骨収集で26,571柱が
確認されている。
今回の収容遺骨数
サイパン島 183柱 氏名判明7柱(1名は陸軍兵長片岡義雄さん)
テニアン島 29柱
合 計 212柱
昭和63年度の遺骨収集は平成元年3月に実施され無事終了した。
その間時代は昭和から平成に代わり新しい時代になっていた。
今回の遺骨収集は昨年度の計画で途中時代が変わり昭和が
平成となって第1番目の実施と思われるが、あくまでも昭和の計画であった。
私が遺骨収集に参加してからいつも感じることは、厚生省の
遺骨収集実施計画書や追悼文、団長の言葉の中に『〇〇を精査収集』
『××地区を精査』『**地域の収集を完了する』など、
あたかも遺骨収集は完了したと言わんばかりの言動が目に着いていた。
平成元年は昭和の続きであり、平成2年と3年は遺骨収集は全く
行はれなかった。
平成3年3月16日付け援護局庶務課外事係の文書を
戦友会代表経由受け取った。
要約すると
一、今年度(平成3年3月まで)の遺骨収集は計画していない。
二、平成3年度(平成4年3月まで)の予算は認められた。
三、タナパグ仮埋葬地については現地不動産会社の情報、
アメリカ考古学者の件あり、外交ルートにより交渉中。
平成4年の遺骨収集は予算は認められているが、考古学者が動いており
(学者が金を出せといい、その額が折り合わないと言う)
交渉中との事であった。
*アメリカの考古学者は八方手を尽くし、バンザイ突撃の集団埋葬地で
ブルで溝を掘り遺体を埋めている写真を手掛かりに、写真の撮影者を
捜しだし、電話でその位置を聞き、現地の場所を写真と見比べて確認して、
業者のブルを借用して試掘をし、その位置を確認していた。
また埋める時ブルで掘った溝は、ショベルの幅の4・5メートル
長さは約200フィート(約60メートル)で一つの溝に約200体
埋めたと言う事を確認していた。
200フィートの溝が何本あったかは聞き漏らした。
*日本の牛田サイパン領事はこの事を承知して早く収骨するよう
国に申し入れているが、国が全く動かないと嘆いて居られた。
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*一方、テニアン島では遺骨収集に非常に熱心な市長がいて、
仕事の暇を見ては市の職員を山に入れ徹底的に調査収集し、
多数の遺骨を収集したので引取りに来るよう、外交ルートで
日本政府に要求したが、日本政府は「焼骨してサイパンまで持って来い」と
言う高飛車な要求に、市長はかんかんに怒り
『今後一切日本には協力しない』と言い、テニアン島在住日本人が
大変迷惑を被ったとの事があった。
そのお骨は93体でテニアンで焼骨したものを、平成4年1月
日本政府が受け取っている。
*平成3年12月 私は思い余って厚生省に遺骨収集の有無を
電話で聞いてみた。
答えは『計画なし』であった。
*平成4年1月 厚生省は、その93体のお骨を受取りに行った際、
サイパンの集団埋葬地の至急発掘を要求されている。
*以上の経緯で平成4年2月上旬、タナパグ地区のみ急遽
実施することに決定した。
平成4年サイパン島戦没者遺骨収集は3月17日より26日までの
10日間である。
実施地域および作業方針(厚生省実施要領より)
事前に情報のあったタナパグ地区(集団埋葬地)の収集を
行うこことする。ただし、確度の高い現地情報が提供された場合は、
島内全地域にわたって精査・収集する。
タナパグ地区遺骨収集の要領
表土を機械により除去した後、人力で発掘を行う。
この際考古学者が2名立ち会うことになるが作業員は、
考古学者1人につき5人、計10人を限度とする。
作業は団長の指揮のもとに行い、派遣団員らがこれに当たることを
原則とし、必要に応じて人夫を現地雇用し、作業に追加するものと
するが、派遣団員はもとより、現地雇用人についても、
作業中の事故防止に万全を期するよう配慮すること。
派遣人員 合計19名
考古学者 マイケル・カチョコさん
*ホノルル・ハワイ 43歳 日本生れ
デービッド・デファントさん
*サイパン在住 独身
3月18日 午後からタナパグの集団埋葬地収骨作業に掛かる。
場所はサンロケ村から南に約1キロの位置にあるプルメリア・
リゾートクラブの南側の200メートル×160メートルの区域で、
ホテルの建設予定地である。
進入口はクラブの南側である。
掘削予定地は敷地の南側と海岸線から50メートル程度の位置で、
トレンチは海岸線に沿って伸びているものと思えた。
そして予定場所には、赤いテープが張り巡らせてあった。
先ず第一の作業は、立ち木の伐採である。
例年どうり遺族会の人が動力鋸を使って伐採し枝を落として
運びやすくする、それを運び出し準備完了。
フルドーザーも到着、考古学者の説明があり前回試掘した場所を
ショベルで掘る。
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白い袋が出てきた。遺骨も出てきた。間違いなくここである。
考古学者のマイケル・カチョコ氏がお骨を指差しながら表面から
50センチを機械で取り除くよう指示する。
お骨はその下およそ20センチにあり、あとは手作業となる。
カチョコさんは掘り出された土の一かけらにも注意をそそいでいた。
表面から50センチ程掘ったところでお骨が出てきた。
後は手で十分注意しながら掘る。しかし土が堅い、堅いはずである。
サイパン島の3月は乾燥期の最後の月で、4、5月は雨季への移行期で
雨が少しずつ多くなる。
3月は土が最も堅い時期である。全員に貸与されている熊手は
全く役に立たない。つるはしは1本しかなく、そのつるはしを
力いっぱい振りおろしても、拳ほどの土が崩れる程度で全く
話しにならない。
再度機械を投入し掘り進める。ある程度掘り各所からお骨が出たので
後は手掘りをする。片手持ちの十字鍬が頼りである。
カチョコさんの話では海側から遺体を埋めたので海側にかたまって
遺体があると言う。海側1・3メートル程に赤いテープを張り
その部分は注意して掘る。掘ってみると3分の2が海側にあった。
2月20日21日22日と3日間にて収骨し総数75体収容した。
その状況を次に示す。
今回の収骨数
19日 歴史保存官より貰い受け 15体
サンロケより収骨 2体
20日 集団埋葬地 31体
21日 集団埋葬地 14体
タッブガウンより収骨 1体
22日 集団埋葬地 30体
カラベラより収骨 5体
23日 歴史保存官より貰い受け 32体 (タナパグ工事現場より)
合 計 130体
23日受領の32体はタナパグの工事現場であると言うので、
昭和62年に掘ったキドさん宅と続きの集団埋葬地の
一部だったのではないかと思われる。
昭和62年にはテノリオ宅より96体、ルイス宅より4体、
また63年にはタナパグ村、タナパグビーチおよびカニ宅より
22体収容しており、それはいずれもタナパグ村であり、
キドさん宅の続きの集団埋葬地の一部だったと考えられる。
戦史によれば、突撃したのは3,000名で、突撃終了後米軍は、
4,311の遺体を数えたと言う。
戦死者はアチュガオ岬からドガス岬に掛けて、4,000名が
散らばっていたと想像されるので、米軍が埋葬した集団埋葬地も
アチュガオ海岸に沿い、約2,000メートルに渡って存在していたと
思われる。考古学者の話では、60メートルの溝に200体埋めたと
言うので、その溝の数は単純に考えて、およそ20ヶ所はあったと思われる。
タナパグ村では工事の度に遺骨が掘り出されているが、
今回掘り当てた所から、タナパグ村に掛けてまだまた沢山の
埋葬溝があるものと思う。
一日も早く収骨を完了することを私は念願している。
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しかし厚生省の動きには、積極性がなく残念である。
今年は実施しないと言いながら、現地政府やハワイの考古学者の要求で
かろうじて重い腰を上げたと言う状況であった。
62年、63年の収骨状況でも集団埋葬地の一部だったと
思える場所からのお骨であった。
真剣にやろうと思えばやれる事であるが、時代は昭和でなく
平成に代わった、戦争責任者もいなくなったと言わんばかりで、
平成4年の遺骨収集は自発的な行動ではなかった。
戦争を始めたのは国であり、犠牲者の遺骨を収集するのは
国の責任である筈である。
1月27日より2月9日まで14日間である。
テニアン派遣 1月28日より2月3日まで7日間
今回の作業方針
サイパン島
平成3年度(平成4年3月17日から同26日の10日間)に実施した
遺骨収集の際に未収集となった残存遺骨について、今回をもって
終了することを目途として、収集を行う。
また、確度の高い情報が提供された場合は島域に渡って精査収集
するものとする』
何だか集団埋葬地の収集は今回で終りのような気がする。
そしてサイパンいや、その他も終了する気でいるらしい。
テニアン島の遺骨収集 今回の特徴を記す。
看護婦さんだったカルミン・サンチェスさんが歴史保存官になっており、
遺骨収骨のガイドも務めてくれた。
またニュージーランド人のロイド・ヤングさんが非常に良く作業に
協力してくれて、マルポの水源地ジャングル、カロリナス北斜面の
水タンク上部のジャングルの現場を案内してくれた。
マヌエル・デラクルスの孫ラビエル・サントスさん30歳のガイドで、
マルポ北サバネタバス下の洞窟で2体収集した。
今回テニアン島では合計15体収容した。
厚生省に因るテニアン島北部、幹線道路東の情報は、
ロータリーの真東約700メートルの地点で、サイパンからの
歴史保存官の来島を得て調査したが、私の見た状況から判断して、
遺骨が埋葬された場所とは思えなかった。
我々が離島後、歴史保存官のカルミン・サンチェスさんが、
部下の若い人、メルビン・クルスさんを連れて行き、
試掘したが遺骨は無かったとの情報を得た。
ある日作業終了後、牧場主の山内常範氏のアパートでビデオを
見せてもらった。
1991年11月30日 日本テレビ放送
『戦場に学校があった』 ムックさんと子供達 46年心の交流
テルフアー・ムック元海軍中尉27歳がテニアンに学校を立てて
勉強をさせ、その後45年振りに対面すると言う心温まるビデオであった。
今回はスコールが非常に多く日本の梅雨末期の雨のように
30日夜から1日の夕方までほとんど止むことなく降り続いた。
サイパンでも作業にならず2、3日休みだったと言う。
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また、歴史保存官のカルミンさんとニュージーランドのヤングさんが
非常に良く協力してくれた。また平成元年にサパネタバスでの
カルミンさんの息子は非常に大きくなり私より背が高くなっていた。
そして私を覚えていていたらしく、私の顔を見てはにかんでいて
懐かしい思いだった。
2月4日 サイパン島に帰り、集団埋葬地収骨作業を行う。
前回発掘の続きを約30メートル掘っていた。月初めからの豪雨で、
一部には水溜まりもあった。この部分を再度念入りに収集する。
前回の作業は乾燥期の末期で土が堅く非常に難渋したが、
今回は時期が早かったので土は非常に柔らかで作業は楽だった。
が雨が多く2日間休業した程だったという。九一体収容した、
集団埋葬地の収集数の合計は339体。
テニアン島の分を含め445体となる。地雷4個も出てきた。
2月5日 昨日の続きを掘り52体収容し、埋め溝の末端を確認して
作業を終了する。収容数は合計497体となった。
2月6日 焼骨作業 歴史保存官がマッピ断崖から収集したもの
歴史保存のデーゴさんから8体を受領し、焼骨合計数量は505体となり、
私が参加しはじめてから最も多い数だった。
夜8時より11時まで火の当番をする。星空のもと、時折青白い炎が
上がり燐光の様で英霊の御霊が静かに昇天する思いである。
北斗七星が良く見えていた。
英霊もこの星を見て故郷を忍んでくれた事と思う。
北緯15度のサイパンは内地に比べ北極星の位置が低い。
マッピの戦闘機飛行場のこの焼骨場はほぼ北向きであり、
日本に最も近い地域である。
2月8日 追悼式。
2月9日 帰国
2月10日 千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて遺骨伝達式
共に戦った戦友の遺骨を奉持し、海上保安庁御音楽隊の
奏楽の中、一歩一歩を足を踏み締め遺族や関係者の見守る中を
行進する。
整列して待つ厚生省職員と対面して止まる。
そして、団長の「お渡しください」の合図でお骨は引き渡される。
遺骨を受領した厚生省職員は一旦遺骨安置台に遺骨を安置する。
厚生政務次官、社会援護局長、援護担当審議官や来賓の拝礼、
献花。その後ご遺族や一般参列者の拝礼にて式は終了する。
その場で解団式、そして任務は完了し解散となる
その後お骨は、しばし厚生省の霊安室仮安置され、毎年春の拝礼式で、
皇族の参列を仰ぎ厳粛に千鳥ヶ淵戦没者墓苑の地下の安置室に納められ、
英霊は永久の眠りにつかれるのである。
昭和61年の拝礼式は秩父宮妃殿下の御臨席を仰ぎ5月26日に
実施され私も参列の光栄によくした。
中央の棺の下が6つに仕切られた地下室があり、大東亜戦争の
戦没軍人軍属のご遺骨が戦場の地域別に納められている。
外国の無名戦士の墓と同じ性格のものとして厚生省が
昭和34年建立した。
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