戦陣の日々 金谷安夫
パート9 年次別遺骨収集概況表 ~
回数 |
年次別 |
戦没者数 サイパン島55,000柱 |
戦没者数 テニアン島14,000柱 |
備考 |
1~3 |
28年~45年 |
5、848 | 2.446 | |
4 | 46年3月 |
1,100 |
870 | |
5 | 46年10月~12月 | 2,097 | 1,483 | |
6 | 47年10月~12月 | 1,737 | 1,354 | 民間団体協力開始 |
7 | 48年7月~8月 | 1,636 | 1,308 | |
8 | 49年10月~12月 | 1,688 | 868 | |
9 | 50年7月~8月 | 1,561 | 821 | |
10 | 50年11月~12月 | 1,278 | 257 | |
11 | 51年7月~8月 | 1,098 | 116 | |
12 | 52年2月~3月 | 1,563 | 27 | |
13 |
52年7月~8月 52年12月 |
314 30 |
5 10 |
遺族会による 国の巡拝団による |
14 | 53年4月 | 1,063 | 59 | |
15 | 54年2月~3月 | 1,372 | 68 | |
16 | 54年6月~7月 | 788 | 17 | |
17 | 55年2月~3月 | 478 | 11 | |
18 |
56年2月~3月 56年3月 |
845 1 |
48
|
受領 |
19 | 57年2月~3月 | 307 | 74 | |
20 |
58年3月 | 530 | 10 | |
21 | 59年2月~3月 | 276 | 22 | 前半に参加 サイパン |
22 | 50年2月~3月 | 181 | 30 | 後半に参加 テニアン |
23 | 61年2月~3月 | 121 | 実施せず | 参加 サイパン |
24 | 62年2月~3月 | 349 | 15 | 参加 |
25 | 63年2月~3月 | 115 | 90 | 参加 サイパン |
26 | 平成元年 2月~3月 | 183 | 29 | 参加 テニアン |
27 |
平4年1月 平4年3月 |
2 130 |
93 実施せず |
受領 急遽実施決定 サイパン集団埋葬地 |
28 | 平6年1月~2月 | 490 | 15 | 集団埋葬地及びテニアン |
― | 合計 | 27,188柱 | 10,146柱 | |
― | 残数 | 27、812柱 | 3,854柱 | |
サイパン島の遺骨は約半数が収骨されているが、残りは半数以上である。
テニアン島では初期に長野県の山岳会が大きな洞窟洞窟を重点的に
探査収骨してくれたので残りは少なくなっているが、ハゴイ地区に
在るであろうと思われる千体埋葬地はいまだ未発見のままである。
土に浅く埋められた骨は土に帰るのが早いが深く埋められたものや
洞窟内のものは現在でもしっかりしていて硬く当分土にかえる事は
ないように思われる。
徳川幕府鎖国時代から抜け出し、新しい日本の道標を示されたもので、
新しい国家はいかにあるべきかを極めて簡単明瞭に示された画期的な
教えであった。
その後、しだいに軍人、官僚、政治家などが国力に余る対外政策を
強行するようになる。大正4年1月18日対支21ヵ条の要求、
大正7年8月2日シベリア出兵などである。軍部の発言力が増すに従い、
陸軍の動きが世界的に非難されるようになった。やがて、軍人の数の増加が
質の低下となり、功利主義で育った将兵の、軍紀を重んずる心が低下して
いった。
『太平洋戦争の主要な戦い』
真珠湾攻撃
ハワイの真珠湾に集結したアメリカ海軍の太平洋艦隊を、宣戦布告と当時に
奇襲攻撃して全滅させ、アメリカ国民の士気を粗相させ、太平洋での戦闘を
有利に導くと言うものであった。奇襲攻撃は成功し、停泊中の四隻の戦艦が
沈没、四隻が破損。300機以上の飛行機が破壊され、死者も2,000名を
越え大戦果をおさめた。
太平洋シーレーン作戦
相手方の国力を判断し国力が優位であれば開戦しても戦いを有利に
展開できるというのが、開戦に踏み切る時の大原則であったはずであるが、
当時の日本の国力は、石油生産はアメリカの72分の1で、戦争に
欠かせない石油の90パーセント、屑鉄は100パーセントを
アメリカから輸入している状態だった。
ガダルカナルの攻防戦
昭和16年12月8日 太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は
東南アジアを攻略、マレー、フィリピンなどを次々に占領していった。
陸軍は、東南アジアを占領した時点で持久戦に入る計画だった。
しかし予想を上回る戦果にあっさりその方針を転換した。
昭和17年4月、日本海軍主導の元に、ガダルカナルの飛行場を
前線基地として建設した。
マリアナ沖海戦
1943年8月(昭和18年) ルーズベルトとチャーチルはカナダの
ケベックで会談し、アメリカが開発したBー29をサイパンから飛ばし、
日本本土を直接攻撃する作戦を立て、その基地としてのマリアナを
1944年6月15日に攻撃することを決定していた。
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海原を埋める艦船合計644隻、地上兵力128,000名という
大遠征隊が出現し、サイパン、テニアン両島の攻撃を開始した。
ビルマ・インパール作戦
1944年(昭和19年)3月、10万の日本軍はビルマからインドの
インパールを目指し、標高2,000メートル級の山岳地帯を突き進んだが、
険しい山道のため食料や弾薬を補給することができず、連合軍の圧倒的な
戦力の前に30,000人以上の日本兵が死んだ。
太平洋戦争の中でも最も無謀と言われたこの作戦は、なぜ決定され、
どの様にして実行に移されたのだろうか。
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昭和17年1月 日本軍はイギリス領ビルマに侵攻、3月首都ラングーン占領、
5月にはビルマ全土を制圧した。
日本の戦争目的の一つであった大東亜共栄圏の建設。ビルマの制圧によって
目指す地域を手中に収めたのである。
フィリピン・レイテ作戦
1941年 昭和16年12月8日 太平洋戦争開戦と同時に、日本軍は
アメリカの植民地フィリピンへの攻撃を開始した。
マッカーサー率いる極東アメリカ陸軍は、オーストラリアへと逃れた。
バターン半島で捕虜になったフィリピン兵やアメリカ兵の
「バターン死の行進」はフィリピン人に強い反日感情を抱かせる
一因となった。
日ソ終戦工作
日本とソビエトは明治以降、満州、現在の中国東北部での勢力と権益を巡り、
対立した関係を続けていた。
昭和7年、日本による満州国の建国は国境地帯での緊張をさらに高める
結果となった。この緊張を緩和したのが開戦前の昭和16年の4月に
締結された、日ソ中立条約である。
日本はあと1年で期限が切れる中立条約が、ソビエトから廃棄されることを
恐れた。日本大使館に延長交渉が訓令された。
この重大使命を託された駐ソ大使佐藤尚武はソビエトの外相モロトフと会見、
中立条約の延長を希望した。
しかし、モロトフは明確な解答を与えなかった。
昭和20年4月5日 モロトフは佐藤を呼び、日ソ中立条約の廃棄、
つまり、延長しないことを通告した。中立条約の有効 期間は5年間。
廃棄を通告されても、後1年は有効である。
日本は残されたこの1年に甘い期待をかけた。
太平洋シーレーン作戦で、アメリカは日本の戦争物資流入を阻止するため、
海上輸送ルーとの破壊に尽力したのに対し、日本軍は殆ど何の対策も出来ず、海上輸送は減少の一途を辿り、物資不足で戦力は急速に減退していった。
日本軍の兵站(戦場で作戦軍の後方にあって需品の前送補給などの
活動をする機関)軽視の思想が影響したものと思われる。
最後に
私は七六一海軍航空隊の一等機関兵として太平洋戦争の聖戦に参加した。
たかが一等兵で戦争の善悪優劣など全く知らぬ儘、聖戦と信じこまされて
マリアナ諸島のテニアン島で戦い、守備隊は玉砕していった。
かろうじて、九死に一生、いや百死に一生を得て、身も心もくたくたに
疲れ果てて帰還し現在に至っている。
国内的にも問題が残された儘である。原爆被爆者援護法の問題が叫ばれ、
一部は実施されだしたが、普通の爆弾や焼夷弾の障害者も被害者の
はずである。
復員軍人の給与の精算や恩給欠格者の問題もある。
政府機関の共済年金では、激戦地加算年数が加えられて支給されるが、
厚生年金には加算されていない。
民間人には隠したまま官だけが甘い汁を吸っているのである。
官だけが得をすると言うのは余りにも虫が良すぎる。戦争に参加したのは
官吏も民間人も同じであり、官尊民卑は民主主義の現在、絶対に存在しては
いけない事である。
後書き
以前から私は『私の戦争』の記録を残したいと思っていました。
参考文献