サイパン島慰霊巡拝コース

お一人様 $130.00 1日コース 昼食付き

写真をアップしました  2013年2月18日

道が狭く、私有地も含まれているため観光バスや

レンタカーでは行くのはかなり困難です。

パウパウツアーでは悪路にも強いバン車両で行きます。

完全少人数制です。

 

朝09:00~夕刻17:00頃まで (昼食時間、約1時間を含みます)

 

訪問場所は皆様の思いにより異なる事は十分存じ上げております。

どうぞ御遠慮なく御希望地をお知らせ下さい。

ミネラルウォーター1本、軍手、お線香

昼食【昼食時の飲み物代は含まれません】

お布施込み

*一部私有地の為、管理維持費としてお支払いしています

 

歩きやすく、汚れても良い服装でご参加下さい。

陽射しも強いのでお帽子サングラスなどの御用意、長ズボンの着用をお奨めします。 

慰霊訪問場所 

特に御指定のない場合、訪問場所は下記より抜粋となります。

お時間の許す限りお参りしてまいります。

 

バンザイ岬

日本軍最後司令部跡地 (中部太平洋戦没者の碑)

スーサイドクリフ

(眼下にバナデロ飛行場跡が碁盤の目のように広がっています)

カラベラ洞窟、バードアイランド

極楽谷(野戦病院としても使われていた場所)

地獄谷(南雲中将、斉藤中将最後の場所とも言われている)

タポチョ山 山頂 (映画太平洋の奇跡、大場大尉の当時の写真があります)

ドンニーの野戦病院洞窟跡

聖母マリアの祠

アスリート飛行場跡 (B29が東京に向かって飛んだ場所です)

佐々木大隊の碑

日本軍爆弾格納庫跡、(トーチカ、魚雷、戦車等もあります)

日本軍発電所跡

日本人墓地

日本刑務所跡

日本病院跡(現在は歴史博物館として利用されていますので外観のみ)

 

 

昭和19年6月15日 アメリカ軍サイパン上陸

昭和19年(1944年)6月15日アメリカ軍は

サイパンへの上陸を開始しました。

それから7月9日までの25日間、

サイパン島は戦火に包まれ沢山の命が

犠牲になりました。

あれから65年が過ぎ、今サイパンはとても平和です。

この平和は多くの犠牲の上に成り立っている事を

忘れないようこの島で暮らして行きたいと思います。

そしてこの島に暮らすものとして戦争とはかくも悲惨であり

人間とは如何様にも愚かになれるものである、

再びこの愚かな戦いを繰り返す事があってはならない。

と言うことを伝えて行きたいと思うのです。

 

スポット御紹介

バンザイ岬
バンザイ岬

バンザイ岬

 沢山の民間の人たちが行き先を失い追い詰められ、

 この岬から海に飛び込みました。

 崖の高さは80メートル、どんな思いで、、、。

 どうしても死ななければならなかったのでしょうか。

 

 

 

太平洋之塔
太平洋之塔

ここはサイパン最北端、日本に一番近い場所。

 

今、この青くたおやかな海を見つめるのは

真っ白い親子像。 平和への誓いです。

 

 この塔は【太平洋之塔】

 昭和45年3月に完成したものです。

 

  

昭和42年に拓殖大学の学生さん9名と日大、

早大、亜大、慶大、東京農大、国学院の各大学

18名の有志がテニアン島の遺骨収集に赴いたそうです。

 

その翌年の7月にマリアナ地区は大型の台風に襲われ

家屋の9割方が損壊しました。

 

テニアンの遺骨収集に参加された学生さん達は

このマリアナの一大事に「マリアナ台風災害復旧隊」と

会の名称を変更しボランティアを募り、再びこのマリアナの地を

訪れ不眠不休で復旧作業のお手伝いをされたそうです。

 

その時にここバンザイクリフに廃材を削り

【大東亜戦争戦没者慰霊碑】という粗末な墓碑を立てたのが

この【太平洋之塔】が建立されるきっかけとなります。

続きは ↓ パウパウアイランド日記【バンザイクリフ太平洋之塔】に、、。

 http://blog.livedoor.jp/pau2tours/archives/cat_50044241.html

 

中部太平洋戦没者の碑

 

サイパン島に数多く建立されている慰霊碑の中で

唯一日本国政府が建立した碑です。

台座の上の石碑は遺骨箱をかたどっています。

そして台座の下には飯ごうなどの遺品が

収められています。

ラストコマンド

ドンニーの野戦病院

    

 

野戦病院といっても建物があるわけでも

治療が出来る設備があるわけでもありません。

昼でも暗いジャングルの奥深い洞窟です。

 

ここで負傷した沢山の兵隊さんを看護した

民間人の日本女性がいました。

その方の名は菅野静子さん。

(旧性 三浦静子さん)

 

 

 

静子さんは山形で生まれ幼い頃両親と一緒に

開拓団としてテニアンに移住。

現地の学校を卒業し南洋貿易に就職するも

サイパン、テニアン島の戦火で家族を失ったと

思い陸軍野戦病院志願看護婦として従軍します。

その時の静子さんはまだ18歳だったそうです。

 

「兵隊さん」と呼んでみた。

「苦しいですか」 重ねて声をかけてみた。

兵隊さんは、私の声の方に少し顔を向けた。

その瞬間私は思わず、「あっ」といってしまった。

ピンポン玉ほどの大きさに、黒い目玉が飛び出していて、しかもそれが動いている。

だが、よく見るとそれは蛆であった。

 

 菅野静子氏著 サイパン島に祈るより

篠塚吉太郎氏著 「サイパン最後の記録」より

 

ある洞窟に入ると、あちらこちらに、みかん箱がいくつも

転がっていた。

私は何気なくその中を見て、ギョッとして立ちすくんでしまった。

どのみかん箱にも、赤ん坊の屍骸が入っていたのである。

腐敗しかけた小さな屍骸には、蝿が真っ黒にたかっていて

異臭が鼻をついてきた。

これは後で判明した事であったが、常時地方人と

共にいた軍人達が、泣かれたりすると居所が解って

行動の邪魔になるからと青酸カリや毒物注射によって

殺してしまったのであった。

極楽谷

  オブジャンビーチに

 今もそのまま残るトーチカ

 

 サイパンには沢山のトーチカや

 防空壕の後がそのままになっています。

 

 サイパンには同じ構造のトーチカが

 アギガン、ラオラオ、オブジャンの3か所にあります。

 又、このオブジャンには貴重なチャモロ遺跡

 タガストーンも残っています。

  

オブジャンビーチのトーチカ

タガ遺跡

ラオラオ砲台

 

 

 

ラウラウ湾を望む高台に

海に向かって銃砲を向けた

日本軍の大砲が今もそのまま

残されています。

この大砲で米軍と戦った日本の兵隊さんは

どうなったんだろうか、、。

地獄谷と呼ばれたところ

 

本軍最後の合同司令部があった

「地獄谷」と呼ばれる場所。

 

 

昭和19年6月29日、日本軍合同司令部は

タポチョ山中腹からここ地獄谷へ移動。

7月6日、南雲海軍中将、斉藤陸軍中将、

井桁少将の3人が自決した場所でもあります。

 

 

 

そして7月7日、日本軍最後のバンザイ突撃はここからタナパグに向かって出撃。

玉砕アタックとも呼ばれています。 

 

地獄谷 マタンシャ

アスリート 日本海軍航空基地跡

酸素製造工場、発電所、弾薬庫、掩体壕、航空魚雷、97式中型戦車、高射砲等が残されています。

草むらに覆われていますが当時のトイレや薬剤保管庫などもあります。

1944年6がつにいち早く米軍に占拠され、米軍の飛行場として使われた場所でもあります。

 

黒木大隊玉砕の地 (独立山砲兵第三聯隊野戦重砲大隊)

 

慰霊顕頌碑

野戰重砲兵第九聯隊第二大隊(黒
木少佐以下二八九名)は昭和十九
年二月廿三日ソ満国境東寧より出
動し独立山砲兵第三聯隊に編入さ
れ仝年三月十九日このサイパン島
に上陸直ちに戰闘配備についた六
月十五日からの米軍上陸に対し十
二門の十五糎榴弾砲の集中砲撃に
より第一次上陸軍を壊滅させるな
ど多大の戰果を挙げた。

 

然し乍らその後の勇戦奮闘の甲斐なく六月十七日の夜襲をはじめとする戰闘により七月十八日までにその殆どが此の地にて祖国の平和と発展を祈念しつつ火砲と共に散華されたここの偉勲を末永く顕彰するため大隊終焉のこのカナツタプラ谷地にロレンソ・D・テレロ氏ほか官民各位の協力を得て慰霊碑を建立し謹んで慰霊の眞心を捧げる
 
 昭和五十三年四月十六日
   野戦重砲兵戦友会
   第九連隊

水源地 聖母マリアの祠  

島には大きな川も湖もないので

お水は大変貴重です。

聖母マリアの祠(サンタルーディス)は

島の重要な水源地です。

 

戦時中は野戦病院が置かれた

場所でもあります。

 

岩の中に安置されたマリア様は

この愚かで悲しい戦争が

早く終わりますようにと

島の人々が祈りを捧げた場所でもあります。

今も残る神社跡  泉神社、香取神社、南興神社、南郷神社、八幡神社

日本時代、日本軍がまず南洋群島で行った事は、学校を作ることと神社の建設だったそうです。

正式に日本統治が認められるまでの間は学校の先生は軍人さんだったと言う事ですが神主さんは

どうしたんでしょうねぇ。

 

戦争中人々が避難していた洞窟

スーサイドクリフ   自決の崖

カラベラ洞窟

古代チャモロ人が書いた壁画  カラベラ洞窟