サイパン島の古い地図や資料
あちらこちらのページに紹介したもののバラバラで纏まりのない資料をこのぺーに集める事にしました。整理しながら少しづつアップします。
サイパン戦前の写真 カレータ (牛車 ぎっしゃ)
日本統治時代、牛車の事を島ではカレータと呼んでいたそうです。 今、カレータはチャモロ語で車の事です。
昭和13年当時 サイパン島
戦前の平和でのどかな風景、この親子はあの戦争を生き抜いたのでしょうか。
サイパン高等女学校 サイパン公学校
地図 /佐藤多津氏著「サイパンの戦火に生きて」より
サイパン高等女学校は1936年(昭11)5月に愛国婦人会立南洋家政女学院として開校。
3年制で開校当初は生徒数50名。その後1939年(昭14)4月に南洋庁サイパン高等女学校となり
4年制が取り入れられた。
基本的に日本人が対象であったがチャモロ人の生徒が一人いたそうです。
サイパン公学校は1922年南洋庁時代・島民学校が南洋庁公学校と改称された。
日本人向けの「小学校」と島人向けの「公学校」の区別が始まり、公学校では総授業時間の
半数以上が国語の授業に充てられていたそうです。
南洋庁の公学校に関する興味深い記述がありました。
南洋庁発行「国語読本」の中の「白銀堂」
法文学部教授/仲程 昌徳氏
下記一部抜粋
公学校の教科目は修身、国語、算術、地理、理科、図画、唱歌、体操、手工、農業、
及び家事(女)であり、その大要は、小学校に準ずるものであるが、右の中最も力を注いで居るのは
国語であって、本科各学年に於いて毎週授業時間の約二分の一(十二時間宛)、補習科に於いては約三分の一(十一時間乃至十時間)を国語に当てるのみならず、凡ての学科の教授用語にもすべて日本語を用い、助教員たる島民が授業を担当する場合にも島民語を用いしめない。国語中心の教育の効果として数えられる点は、
(1)各主要島群毎に言語を異にする島民に対して共通語を与うること、
(2)官庁及び日本人の事業若くは家庭に雇用せられ、又は商人との取引上実益を得ること、
(3)日本語を通じて近代文化を吸収する機会を得ること等にある
が、かくの如き国語普及政策はひとり南洋群島のみならず、我国の諸植民地に共通せる教育
方針であって、根本に於いては同化主義政策の表現と解しなければならない。又小学校(日本人児童)と公学校(島民児童)との間に教員の転任を自由に行うことは、一応は日本人教育と島民教育とを一視同仁するの趣旨を現すものではあるが、往々島民の風習や思想について理解浅き教育を施すの弊害を招くことなしとせず、前述の徹底せる国語教育方針と相待って、島民社会の特殊性に対する考慮の不足を感ぜしめる。
詳しくは http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/library/biblio/bib30-4/bib30-4-1.html
パラオの公学校を訪問した際に公民学校校歌を子供たちが歌ってくれた。
が、その歌詞の内容を聞き「作者の支配階級意識に驚嘆した」と記載されています。
その歌詞とは ↓です。
みいつかしこきすめらぎの、深き恵みの露うけて、
椰子の葉そよぐこの丘に、そ丶りて立てるまなびやは、
日毎に集う我等の庭ぞ、あな嬉しやな、嬉しやな。
天恵うすきこの島に、盲人のごと産れきて、
西も東も知らざりし、我等が眼にも日はさしぬ。
みなまなびやの賜ぞ、あな嬉しやな、楽しやな。
確かに、心が痛む歌詞であると自分もおもいました。