戦陣の日々 金谷安夫著 パート3 戦史サイパン玉砕~
7月6日 斎藤中将は万歳を三唱して割腹、副官に頭部を撃たせた。
同じ日、南雲中将もピストルで自決し部下の総攻撃のはなむけとした。
7月7日の未明約3,000名の日本軍が、
アメリカ軍前線の間隙を突いてなだれこんだ。
ある者は竹の先端に銃剣を結び付けたものを武器とし、
ある者は竹槍で、また武器のない者は素手で、口々に万歳を叫び
七生報国を唱和しながら突っこんだ。
その武器や装備は哀れなものであったが、死地につこうとする気迫、
1人でも敵をたおして玉砕しょうとする激しい闘志に燃えていた。
この日本軍の烈々たる気迫は世界のどこの国の軍隊にもその例を
見ないものであった。
この鬼気迫る日本軍の攻撃にアメリカ兵は怯えた。
混乱するアメリカ兵に日本兵は際限もなく襲いかかって来た、
アメリカ軍歩兵第1大隊と第2大隊は668名の負傷者を出して
ちりぢりに逃げ去った。
海兵隊の105ミリ砲陣地も圧倒されそうになった、
日本軍は連隊本部に殺到した。
だが遂に優勢な米軍火力の集中砲撃の目標となり、海岸と道路は
日本人の死体で埋められた。
バンザイ突撃は終りを告げた。
日本軍の死体は一般市民をも含め4,311に達した。
約4,000名の日本人がサイパン島北端に追詰められていた。
殆どが一般市民だった。
アメリカ兵はゆっくりと日本兵を捜しながら進んだ。
組織を失った日本軍兵士に出来る事は、「生きて虜囚の辱しめを受けず」を
繰返して自決用の手榴弾を手渡すぐらいのものであった。
そして迫り来るアメリカ軍に兵士は発砲した。
しかし一人の兵士の闘魂は、かえってその回りに群がる市民に銃弾の雨を
降らせる結果となった。
男性より女性が一そう虜囚の恥を恐れた。
マッピ山頂に追われた女性の一団は150メートルの断崖から身を投げた。
家族は手を取合い、親は子供を抱締めて海に飛込んだ。
車座になった数人の市民はその真中に手溜弾を叩き付けた、
轟音と共に人々は折重なって倒れた。
この悽惨な光景を前にしてアメリカ兵はただ呆然と立尽くした、
悲鳴も上げずに死を急ぐ日本人、この恐ろしくも静かな死の世界に
直面したアメリカ兵はただ銃を握りしめて立っているばかりであった。
7月9日午後4時、スプルアンス大将はサイパン島の占領を声明した。
アメリカ軍の死傷者は14,111人。
31,629名の日本軍は殆どが戦死し、生き残った者は約1,000名に
過ぎなかった。
戦火に巻込まれて死んだ市民は10,000人を越えたと云はれている。
砲声の止んだサイパン島は又静けさを取戻した。
その静寂も長くは続かなかった。
アスリート飛行場は拡張整備され後方から飛来する
超空の要塞Bー29が次々と舞い降りて来たからであった。
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戦死者 続出
7月10日 同年兵の山口万次の戦死の知らせがあった。
彼は燃料車担当で第二飛行場付近の民家に退避していた。
2日前、作業中に車から落ちて、足、腰の打撲で休養中に機銃掃射で
被弾戦死したと言う。
水落巌、的石大山、友則恒信上等兵等で埋葬したという。
7月18日 同年兵藤田輝雄の戦死。
マルポの菊池さん宅にて、昼食を済ませ一休みしていた時
いきなり低空で敵機グラマンが機銃掃射を浴びせてきた。
発射音より早く弾が先に飛んで来て、屋根のトタン板を貫いて
数発の弾が飛び込んで来た。
一陣の掃射で攻撃は終わり我にかえった時、藤田が縁側で倒れているのが
眼にとまった。
近づいて見ると機銃弾が頭の右上から左に貫通し既に事切れている。
本当の即死状態だった。
夕方になり敵の攻撃が終わってから、藤田の遺体を砂糖黍畑の隅に埋めてやり少し大きな石を建てて墓標とした。
同年兵の藤田輝雄とは佐世保入団以降行動を共にして来た戦友であった。
彼は福岡県の出身で色白丸顔の好男子で、成績優秀な兵隊だった。
惜しいことをしたものである。
山口と藤田が戦死したが、敵と戦ったのではなく、
ただ弾に当たって死んでいった。
敵は我々が居ようが居まいが弾を打ち込んで来た。
そして運が悪ければ弾が誰かに当たり死んでいった。
我々海軍の兵隊は殆どが銃もピストルも持たない丸腰の兵隊だった。
飛行場で正規の作業をしている間は整備兵、機関兵としての役目を
果たす事が出来たが、今の様な戦争になると丸腰の兵隊は只敵の弾に
当たるだけの役目しかなかった。
ある日の夕方、握り飯を作っている最中に港の方から炊事場の土間の
土の上すれすれを砲弾がシュルシュルと音をたて、赤い火を吹きながら
飛込んできた。
そして、皆大慌てに慌てて外に飛び出した。
道路脇の凹地で様子を見たが爆発しない、暫く様子を見て帰った。
ある者は下駄と草履を履いて、また地下足袋を片足履いた者、
皆の慌て振りが改めておかしく大笑いした。
アメリカの弾には不発弾が多かったが、それにしても人騒がせな
不発弾だった。
日本軍の弾は一発必中で必ず当たり爆発したが、敵の弾は百発一中で、
当たった弾も不発弾が多かった。
また百発中の九九発が不発弾だったかもしれないが、不発弾も多量になると
その威力は大きかった。
サイパン陥落後、敵の攻撃の主力はテニアン島に集中してきた。
我々も昼間はジャングルに避難しなければならなくなった。
夕方山を下りて菊池さん宅に戻り、握り飯を作りトラックで
前線に運ぶ日が続いた。
戦史 その後の戦況
サイパン島アギガン岬に据えられたアメリカ軍の重砲は、
連日テニアンを砲撃した。
18日、大本営はサイパンの玉砕を発表した。
これはテニアンの居住民が漠然と危具していた事であった。
しかし玉砕が事実である事を知った衝撃は大きかった。
テニアン島の陸海軍部隊は合同作戦会議を開いて、アメリカ軍上陸に伴う
陸上戦闘の要領を協議した。
守備隊長緒方大佐が指揮をとり、陸軍部隊を主力に海軍警備隊並びに
航空隊及び設営隊その他の混成によるテニアン陸海軍守備隊が編成された。
7月23日 アメリカ軍はテニアンに上陸を試みたが日本軍の執拗な
抵抗にあい上陸は失敗に終わった。
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24日 アメリカ軍は両面陽動作戦に出て上陸の機を伺った。
即ち第二海兵師団は日本軍の注意を引付ける為に南岸に模擬上陸を開始した。
その間に第四海兵師団がサイパンからテニアンの北西岸に輸送された。
そして上陸用装甲車は15波に及ぶ短い間隔で兵士達を海岸に運んだ。
上陸軍は迅速に内陸に向かって扇形に展開した。
平坦なテニアンの砂糖キビ畑は防備には余り適していないから
日本軍は居ないと予想された。
海兵隊はいつもの突進戦法を止めて、砲兵隊の弾幕射撃のあとを整然と
前進した。
アメリカ軍はアシーガ、ラソ、カーヒーと除々に南下した。
日本軍は南端のカロリナス台地に後退して防備陣地を敷いた。
テニアン島 アメリカ軍上陸
7月24日 朝7時、敵は上陸用舟艇でテニアン港に殺到してきた。
カロリナスのジャングルから良く見えていた。
その数は幾らだったろうか、真っ白い水しぶきを上げながら
幾重にも幾重にも続いて来る。
ソンソンとカロリナスの砲台が火を吹いた。
敵の舟艇の間に着弾の水柱が立つ、舟艇はくるりと向きを変えて
帰って行く、砲台から追い討ちを掛ける、見ている方も頑張れと
大きな声援を送る。
敵の逃げ惑う様を見ていると、勝った勝ったと気持ちが良い。
敵の軍艦は、我が軍をなめきった様子で、港の直ぐ近くまで来ている。
そこへ、カロリナスの海岸砲が火を吹いた、艦は命中弾を受け
慌てて沖に退避していった。
内外の戦記によれば、テニアン町の裏の谷の3門の15センチ砲台は
一斉に火を噴いた。
戦艦コロラドは22発の命中弾をうけインディアナポリスと交替した。
駆逐艦ノーマンスコットは命中弾六発をうけ、艦長と
司令官セイモア・D・オーウエンを含め、46人負傷、
5人戦死の損害を受け、コロラドと共にサイパンに
帰らざるを得なかった。
我が守備隊は米軍のテニアン町正面における陽動作戦を
主上陸と判断し、予備隊等を増強して、米軍上陸部隊の撃滅に
備えていた時、米軍は北西海岸のウネハーブイおよび
ウネチューロ正面に対する上陸を開始していたのである。
我々は、あの舟艇で何処かに上陸してくるのではないかと、
不安な気持ちでカロリナスのジャングルから眺めていた。
港に対する上陸は敵の陽動作戦であった。
日本軍はそれにまんまと引っ掛かり、主力を港方面に
集めていたのである。
一方、ハゴイ方面の海岸は爆撃と砲撃で目茶苦茶に
攻撃されており、砲煙と砂煙が西から東に棚引いているのが
カロリナスからも望見された。
いよいよ敵は西ハゴイから上陸する様子である。
ソンソンに集結していた戦車は、再びハゴイに向かったとの
知らせが入った。
陸さん(陸軍の兵隊)頑張れ。戦車は11台だという、
11台では勝ち目はない様であるが、しかし陸さん頑張れと
祈らずには居られない。
7時30分頃、敵は第1基地の西岸に上陸、
八時頃には飛行場に進入して来た。
我が守備隊は夜戦に備えラソ山周辺に集合、夜12時を期して
中央に海軍の雉、隼部隊、左右を陸軍で、敵の橋頭堡を
三方面から包囲するように攻撃した。
しかし米軍砲兵の猛烈な弾幕射撃と昼を欺くような照明弾射撃により
一歩も前進する事が出来ないうちに25日夜明けとなり、
ついに優秀な米軍の火力と戦車等のために撃退され、
約2,500名に及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わった。
不沈戦艦と言われたあのサイパンも陥落した。
テニアンの兵力はサイパンの数分の一しかない、
敵が上陸して来たいま、テニアンは何時まで
持ちこたえる事が出来るだろうか。
連合艦隊はどうしているのだろうか、艦隊よ1日も早く
来てくれと祈る。
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高級将校の島外脱出
比較的安全だったマルポの菊池さん宅も敵が上陸してからは
艦砲と飛行機の攻撃が多くなり、昼間はカロリナス北斜面の
山中で過ごし夕方になって下山し炊飯作業を行っていた。
岩場のジャングルでスコール避(よ)けにタコの木の葉で屋根を
作っているとき、一航艦(第一航空艦隊)の兵隊が
搭乗員はいないか』『搭乗員は東海岸に集合』と言ってきた。
聞いてみると搭乗員と高級将校は東海岸から潜水艦により
島外に脱出し、外から米軍を攻撃するのだとの事であった。
しっかり頼むぞと云っては見たものの何だか変な気持ちだった。
戦記によれば、7月7日 サイパンの陸軍守備体はついに玉砕し、
テニアン島は孤立無縁となった。
7月中旬以降も砲爆撃は衰えず、テニアン守備隊は、
米軍の上陸の徴候が少しでもあると、戦闘配備について警戒した。
この間、中央からの命令により、第一航空艦隊司令部や
飛行機搭乗員の潜水艦による脱出が数次にわたって企画されたが、
いずれも失敗に終わった。
司令部の脱出計画は軍隊および邦人の士気に微妙な影響を与えた。
注 6月27日連合艦隊の作戦指導方針によれば、
第一航空艦隊司令部はダバオに移動することになっていた)
大高勇治著「テニアン」によれば
升谷中尉が司令部脱出にかんする指揮官を
命ぜられたとのことであった。
始め飛行機による脱出が計画されたが、それが不可能となり、
不成功に終わった。
やがて司令部脱出計画が兵隊のあいだに漏れた。
それは、安心も休息もない砲爆下に生きている人々に、
呪詛と憤怒をもたらした。とくに、陸軍からの悪罵が
はげしかった。
全員玉砕を覚悟しているときに、最高司令官がひとり
逃げるとはなにごとか、と単純(一本気)な将校連中は
怒っていた。
サバネタバスの炊飯
7月28日 『サバネタバスで炊飯、決死隊で出発』と命令がきた。
兵員一同集合して命令が伝達された。
『決死隊は一歩前』と言われても誰も出る者がいない、
いよいよ来るものが来たと思うと郷里のこと父母のこと弟妹のこと等が
頭の中を駆け巡り皆の顔が走馬灯の様に現れる。
前に出る者は誰もいない、見渡した所私が最も年長の様である。
よし、とふんぎりをつけて前に出る、しばらくして数名の者が私
の横に並んだ。
釜と米、それに水をトラックに積み暗くなるのを待って出発する。
照明弾が絶え間なく上がり、マルポからサバネタバスにかけては
海からは見えない場所であり上空に飛行機さえ居なければ、
走るのは楽だった。
山道になり車の進行は不可能となりトラックを降り、
米を担ぎ釜を担いで歩く。
前線に近くマルポとは様子が違う、何となく異様に感じられる
煙硝の臭いである。
牛や豚が各所に死んでいる、軍靴と片手を出した兵が
埋められている。そして、近寄ると物凄い蠅がワーッと
飛び立ち顔に止まる、 堪え難い死臭、米を担いだ足がすくむ。
ようやく台上に上がり民家を見付けたが大きく破壊されている、
トタン板を集めて囲いを作る、二重に囲い火の光が漏れない様に
して炊飯を行う。
ひと月以上自分たちで飯を炊いているので、水加減火加減など
旨いものである、中でも宮崎県出身の稲尾東見一等機関兵は
農家の出身だったが微妙な水加減がうまかった。
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大きな握り飯を作り、ミカン箱にバナナの葉を敷いて
入れて前線から取りに来るのを待つ。
受取りに来た兵達は『有り難う』『有り難う』と
とても喜んで帰って行った。
彼等はおかずも無い只の握り飯一つで前線の壕の中で
一日中頑張るのである。
受取りに来た兵士の話では今日はサバネタバスにも戦車が
登ってくるだろうと言っていた。
サバネタバスを撤収して下山したら夜が開けた。
暫くすると前方でごうごうと音がしている、
敵の戦車の音に違いない。
ごうごうという唸りは多数の戦車が居る為だろう。
ドンの発車音につづき直ぐにパンと破裂音がする、
ドンパン、ドンパンと撃って来る、敵は相当近くに居るらしい。
我々決死隊だが武器なしでは戦えない、ドンパン、
ドンパンに追われ草むら、土手、民家の水槽等を
防御物として後退した。
途中の爆弾の穴の縁には各々1人ずつが死んでいた。
かろうじてマルポの菊池さん宅に辿り着いたのは
29日の夕方であった。
司令部に集合
30日『第一航空艦隊はカロリナス東部の司令部に集合』の命令が出た。
カロリナスまで後退すれば、もうそれより後退する所はない、
総員突撃あるのみである。
また食糧、水も無いので炊飯も出来ないという、握り飯を作り
雑嚢に詰め込み水筒に水を満たし、マルポの菊池さん宅を出発した。
月夜の晩とはいえ、ジャングルの通過は困難を極めた。
夜が白む頃、ライオン岩の麓まで来ていた。
『兵隊さん助けて下さい』と呼ぶ女の声に振り返ってみると、
民間人の親子が筵を被って呻いている。
一家全員負傷して動けるものは居ない様だ、頭の無い子供の死体も
一緒に居る。
水と握り飯を与え『頑張れよ』と励ますしかすべは無かった。
ライオン岩付近は凄惨(せいさん)(目の当てられないほどむごいこと。
痛ましいこと)の極みであった、兵隊も民間人も区別なく
戦死した者が多く、中には腐乱してウジがわき堪え難い死臭を放ち、
この世のものとは思えない情景であった。
日が登る頃カロリナスの台上に出た。
目指す司令部も間近かという時、艦砲とサイパンの砲台が
火を吹きだした。
飛行機も上空を旋回しており道路を歩くことが出来ないので
一時ジャングル内に避難した。
ジャングルは木が大きく下が空いて居るので割合歩き易い。
また岩が多く弾避(たまよ)けにもなる地帯であった。
日中をジヤングルで過ごし、夕暮れから司令部を探して
台上の砂糖黍畑を歩く。
この頃敵の砲火は総てカロリナスに集中して、鉄を含んだ
暴風となって吹き荒れていた。
敵兵の姿は全く見えない、ただ打ち込まれる砲、
爆弾に翻弄されるばかりであった。
いかに強靭な体の者でも敵と対峙して戦い刺し違えるでもなく、
ただ鉄の暴風の中で一発の破片が当たると負傷しカロリナス台地を
血で染めていった。
破片の当たらない者はただ暴風で右に左に翻弄されるだけで、
負傷者の手当ても何も出来なかった。
カロリナス台地の民家の廃墟に中玉利、稲尾、徳永、と私の4人で
避難している時、艦砲の砲弾が炸裂した、不意を突かれ
ぎくっとしたとき徳永一機(一等機関兵)が足を抱えて呻いている、
足首に破片が刺さり血を吹き出している。
止血をしてそこを出た、路肩の溝に並んで身を隠す、
周辺でまた砲弾が炸裂、それに続いてジャングルから
民間人が大勢道路に出てきて上にあがって行く、
そこへ砲弾が数発炸裂した。
死傷者が続出する、たちまち大混乱となった。
我々も溝に伏せているだけで何もする事が出来ない。
ふと振り返って見たら道路の先にはサイパン島が見えていた、
今の砲弾はサイパン島のギーガン岬の重砲陣地からの砲撃に
間違いない様だった。
ここは危ない、再び徳永を担ぎ台上に出て遮蔽物をさがす。
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運悪く飛機行機に見付かってしまった。
飛行機が機首を返してこちらを向き13ミリ機銃を撃ってくる、
弾が後ろから追っかけてきてピッピッピッと土煙を上げる、
全然動けない。
グラマンが飛び去ってすかさず走る、グラマンは機首を返して
再び襲いかかってくる、弾が後ろから追っかけてきてピッピッピッと
土煙を上げる。
全然動けない、グラマンが飛び去る。
すかさず走る、グラマンは機首を返して再び襲いかかって来る。
ピッピッと土煙が上がる。飛行機は去った。
徳永を引き摺って走る、大八車の下に4人潜り込む、
来るぞと思ったその瞬間クワックワックワッの発射音と共に
機銃弾が飛んできて附近は土煙に覆われる。
機が近ずく時の発射音はクワックワッと詰まって聞こえるが、
遠ざかる時はドッドドッドッと間伸びして聞こえる。
ドッドッドッの発射音と共に機が遠ざかる。
飛行機はまた機首を返して大八車を攻撃している、横から見ると
砲に見えたのかも知れない。
すきを見て防風林の中に飛び込んだ、今度は防風林の中から
高見の見物ができた。
それにしてもあれだけ撃たれても当たらない時は
当たらないものである。
防風林で休んでいる所へ津田兵曹がやってきた。
上官が来てくれたので幾らか安堵した。
彼は恵良馨上機(上等機関兵)(福岡県糟屋郡出身)と共に
行動してきたが、途中、恵良上等兵は機銃弾に頭を打ち抜かれ
即死したという、爆弾の穴に引き摺り込み土を掛けようとしたが
素手では如何ともしがたく、芋の葉をかぶせて別れて来たとの事だった。
津田兵曹は血潮を浴びて真っ赤である。
徳永と同年兵の中間一機が遮蔽物沿いに近ずいて来た。
我々も防風林で休んで居る事も出来ない、徳永も苦しんでいるので、
早く野戦病院に連れて行ってやりたい、そして我々は一刻も早く
司令部に集合しなければならない。
陸軍の兵士が通り掛かったので聞いてみた、
『野戦病院は撤収されカロリナスには無い、衛生兵は居るが
何処に居るかは分からない』という、誠に心細い事であった。
夕暮れになりグラマンが去った後で、徳永をジャングルの
岩場に運んだ。彼は傷の出血で顔面蒼白でしきりに水を欲しがる、
もう一歩も動けない。
また彼は『俺に構わず貴様達は司令部に行け』と言う、
仕方なく彼の水筒に水を出し合って一杯にしてやり握り飯を渡し、
敵を倒すために1発、自決する為に1発計2発の手榴弾を渡し、
『靖国神社で逢おう』と言って彼と別れた。
その後、彼はどうしたことか。
徳永と別れ、司令部を求めて歩いた。
徳永と別れた所からはアギーガン島が見えていた事を考えると
我々は司令部と反対側のカロリナスの南西方面に来ていると
思われたのでジャングルを通って東側に向かった。
徳永をジャングルに置いて来たので稲尾、中玉利と私の
3人になってしまった。
夜の岩場のジャングルは全く歩きにくい。
何時の間にか空の開けた草地に出た。
ジャングルを歩く時幾らかずつ下に降りていた様だった、
草地の端まで来たら潮の香りがして海岸の上まで来ていた。
夜のジャングルは涼しいとはいえ歩くととても暑い、
水筒の水はもう一滴もない、水筒を口に当てると
水気を感じる程度である、益々喉は乾く。
ままよと、潮水でも飲むつもりで崖を下りる。
テニアン島の海岸線は殆ど垂直に切り立った断崖であるが、
ここは急峻ではあるが坂になっていて木の根や石に掴まれば
下りられそうであった。
木の根を握り草の株に足を掛けつる草に掴まって、半分滑りながら
かろうじて海岸に辿り着いた。
海岸には既に数人の民間人が来ていた、彼等も水を求めて
来たのだと言う。
兵隊さん戦争はどうなるのですかと心配顔である。
我々は一刻も早く司令部に行かねばならないが、喉の渇きを癒さねば
ならない。
兵隊さん水が有りますと一升瓶を渡された、3人で心行くまで飲んだ、
喉の渇きは治まり腹は満腹になりひもじさも忘れていた。
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彼等に案内されて水場に行く、大きな岩の上に畳2枚ほどの穴があり
水が満々と溜まっている、そしてその水は真水であった。
天水が溜まっていたのである。
そこで再び水を飲んだ、そしてタオルを絞り体を拭いた。
久し振りでサッパリとなり海面を撫でて来る風が涼しい。
この海岸は戦争を忘れたように静かであった。
時折南方海面に発砲の稲妻が見えるが遠いのか音は聞こえないので、
ロタかグアムが攻撃されているのかも知れない。
暫く腰を下ろして休んだ。
くたくたに疲れた体はいつしか深い眠りに落ちていた。
目が覚めたときは夜が明けかかっていた。
付近一帯は民間人で溢れて、兵隊もまばらに居る。
日が昇るに従い人々は岩陰に隠れ、我々も岩の割れ目を探し潜り込んだ。
そこに1人の陸軍の兵隊が来て一緒に入れてくれと言う、
余裕があるので入れてやった。
戦史 守備隊の玉砕
7月28日 緒方守備隊長は、陸海軍大臣に当て次の様な電報を発した。
『在テニアン邦人15,000名中 16才より45才の者
全員3,500名 義勇隊を編成し軍に配属、奮戦敢闘しつありて
皇国人としての伝統を遺憾なく発揮しあり。
老人婦女子は集合の上爆薬により処決す』
この電報は戦闘期間中、軍が公式に民間人に関して報告した唯一の
ものであつた。
この事は、日本本土に多大なョックを与え、新聞は3,500名の義勇軍が
決起して将兵と共に戦闘中である事を報道し全国民を激励したのであった。
アメリカ軍はなおも進撃を緩めなかった、戦車とバズ―カ砲を先頭にして
前進した、マルポ盆地から山腹のジャングル地帯にかけて激しい攻防戦が
各所に展開された。
8月1日 アメリカ軍戦車は遂にカロリナス台地に達した。
8月3日の払暁日本軍はアメリカ軍戦車に向かって最後の突撃を敢行した。
白刃をかざして、戦車の後ろから進んで来るアメリカ海兵隊の中に
切り込んだ。
海兵隊の兵士達は狂った様に銃を射ちまくった。
やがて激しい銃声と大きな喚声はおさまった。
焼土と化した砂糖キビ畑には戦死者の屍が黒々と重なっていた。
こうして不沈空母と言われたテニアンは遂にその姿を
消してしまったのである。
そして、アメリカ軍はサイパンに続いてもう一つ
Bー29の基地を確保した事になった。
海岸にて
8月2日朝 海岸は人一人見えず以前の静かな海岸にかえっていた。
そこへ右側の岬から砲艦が一隻現れ海岸の前にきて止まった。
『海岸の兵隊さん戦いは終わりました、兵隊さんも民間の人も
早く出てきなさい。
白旗を持って崖をあがって行くとアメリカ軍の陣地が有ります、
そこには食糧も煙草も有ります。 早く出て来なさい』
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カタコトの日本語である。2世の兵隊が放送している様である。
繰り返し繰り返し放送している。
来るものがついに来た、しかし我々はまだ生きている、司令部は
どうなったのか、総攻撃はどうだったのか。
ついにテニアン島は敵の手に陥ちたのだった。
我々は今後なにを為すべきなのか。
放送は続いていた、そして最後に『早く出て来なさい、
あと5分の間に出てきなさい。
5分後に日本で言う艦砲射撃を始めます、早く出て来なさい』
我々は息を殺して岩にしがみついていた、そして5分経ったと思う頃
砲撃が始まった。
砲艦の砲は50ミリ程度であり海岸の岩は大きく全く被害はなかった。
崖の上には米兵がいて時折顔を出しては機関銃で撃ってくる。
夕方になって砲艦は去っていった。
崖の上の米兵も陣地に帰るらしく静かな我々の夕涼みの時間になった。
毎日朝になると砲艦が来て、放送と砲撃を繰り返して帰る日が続いた。
陸軍の兵が持っていた米を一と握りずつ貰って生米をかじる。
水筒に岩の上の水を詰め体を拭いて生気を取り戻す。
しかし我々は如何にすれば良いのか、模索する内に
数日が過ぎていった。
マルポの基地を出発するとき持って来た握り飯を最後に食ったのが
31日夜であった、それから1週間がたっている。
陸兵に貰った一握りの米ももうすでに無い、ポケットを探っていると、
固い物がごみと一緒に伸びた爪に引っ掛かってきた、
見ると白い米だった。
ごみを除いて食べた、2~3粒しかなかったが、
唾液に溶けて甘かった。
毎日水だけで過ごしてきたが空腹感は全く無い、排泄物も出なかった。
ただ、体力は日増しに無くなり、岩場の水汲みが段々苦痛になり、
どうにか2本の足で立って平地をやっと歩ける程度となった。
僅か30センチ程の段も足だけでは降りる事ができない、
腹這いになり足を下ろしてやっと降りる、また登る時も
手で加勢しないと足は上がらなくなった。
これでは餓死を待つばかりである、せっかくの命である、
友軍が来てもこんな体では役に立たない。
何とかして日本艦隊が来るまで頑張ろう、その為には台上に登り
食糧を探すことだ。
民間人の話では、東海岸に行くとロープが吊してあり、
そこからならば台上に登れるという事だった。
海岸に降りてから7日目の夜、稲尾、中玉利、陸兵と私の4人は
東海岸を目指して歩いた。
弱った体で岩の多い海岸を歩くのは非常に困難であった。
暫くして割合岩の少ない海岸に出た、海は静かで月もあり
海岸は今までの戦いを知らぬげに波は静かに打ち返している。
しかしその海岸も少し歩くと静かでは無くなった、
民間人や兵隊の死体が岸に打ち上げられ、或るものは波に漂い、
岸の死体は甚だしい死臭を放っている。
戦いはこの海岸でも行われたのであろうか、断崖から墜落したか
投身自殺したものか、出会う度に手を合わせ避けて通った、
月が陰った時は仏につまずく事もあった。
どれ程歩いただろうか、体はくたくたになりもう歩く気力もなく、
隠れ場の多い岩場で一休みした。体力がなくなると良く眠るように
なるのか、またも四人共寝込んでしまった。
目が覚めたらすっかり夜が明けて日は高く登っていた。
もう敵に見付かる恐れがあるので歩く事が出来ない、
今日1日ここで過ごす事にした。
大日本帝国海軍の連合艦隊はどうしたのだろうか。
今回の初空襲は6月11日だった、あれから2ケ月
友軍機は1機も来てくれない、連合艦隊が全滅する筈がない、
肉を切らして骨を切る戦法を取っているのだ、何とかして
艦隊が来るまで頑張らなくてはならない。
この海岸からは敵の軍艦は全く見えない、また崖の上の台上の敵も
鳴りをひそめて静かである、眠っているでも なく、
目覚めているでもなく1日中うとうととしている間に
日は西に傾き夕方になり、ほっとした気分になる。
ゆっくり休んで体力が快復したというわけもなく、
食う物がないと、寝ても起きても体は弱る一方であった。
しかし何とかして台上のジャングルに潜り込み食糧を探して
命をつながねばならない。
東海岸のロープを吊した海岸はまだ遠いのか、この付近の断崖は
全然登れそうにない。
ロープを吊した所まで何とかして歩かねばならない、
敵がいないので夕方の明るいうちから歩き始める、
暫く歩くとまた死体の多い所があった。
歩きに歩いたつもりであるが這うようにして歩くので殆ど進んで
居ないのであろう。
夜のとばりがやがて明けようとする頃、眼前に大岩が聳え
海に根を下ろしていて水際が歩けない、はたと困り付近を探索した、
眼前に立ち塞がった大岩には下部に大きな窪みがあり、
陸軍の兵士10数名が死んでいた。
艦砲の直撃を受けたのか自決したのか、しかし陸軍の兵士が
なぜこんな海岸にいたのだろうか、こんな所でも戦いが
あったのかと思った。
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パート4に続く