戦陣の日々  金谷安夫著

パート5 戦記 掃討戦と終戦 ~

 

83日ごろから米軍は艦上の拡声器で降伏を勧め、
民間人の自決を戒め、一方陸上からは投降勧告と平行して、
洞窟から洞窟への掃討を続けた。
 
この頃までの民間人の戦没者は、すでに3,000人を越え、
崖から身を投ずるもの、手榴弾で自決するものも多かった。
生存者は、数人から数十人の集団となって、米軍の施設や、飛行機、
自動車を破壊したり、人員を襲撃するなど遊撃戦を展開しながら、
友軍のテニアン奪回の日を期待したのであるが、米軍の掃討の激化と
食糧の欠乏によって、次第に消耗して行った。
 
昭和1910月中旬頃には、約12,200名の民間人(内3,700名は朝鮮人)がチューローの元南洋興発直営農場に収容され、
 軍人の投降者も逐次増加し、アシーガの旧海軍送信所跡に収容された。
一部アギーガン島に脱出を企てた者もあったが、成功したものは
少なかった。
 
米軍は昭和208月下旬ジャングル地帯に、終戦の詔書や
ポッダム宣言等のビラを散布するとともに盛んに終戦を放送した。
 
 321航空隊の桝谷中尉(生存者の最上級者)はカロリナスにいたが、
各種徴候により終戦は事実であると判断し、910日米軍と会談の結果
投降を決意し、散在する生存者の敵対行為を中止させるとともに、
その集結を図った。
 
しかし敗戦を信じない者が多いので、サイパンから大場栄大尉
(注、歩兵第一八連隊衛生隊長で、サイパン生存者の最上級者)、
次いでグアムから近森重治大佐(注ウェーク島の独立混成第一三連隊長で
あったが戦犯容疑のためグアムに収容中であった)が来島して
説得に当たった結果、生存者はほとんど投降することになった。
終戦後の収容者は、61名(民間に潜入した者を除く)であった。
注:中島文彦氏の記述「テニアン収容所における邦人の生活について」
  によれば終戦前の捕虜は252名、民間人収容者(昭和2012月末)  
  は、日本人9,500名、朝鮮人2,679名、計12,179名で、民間人戦没者 
  は3,500であった。
 
疑問点:サイパンの大場大尉は昭和20121日投降しているので、
  彼が投降勧誘したのは12月以降のこであり、その頃には
  残存兵は殆どいなかったと思う。
  私たちが投降した915日が殆ど最後だったと思っている。
 

投降

 

1982日テニアン島の守備隊が全滅し、我々がジャングルに潜伏し、
ゲリラとなつてから1年たった昭和208月中旬頃、『終戦の詔書』
というテニオハのおかしなビラがジャングル内の木の枝に下がりだした。
 
アメリカ軍が日本の敗戦を告げる文書で、アメリカの2世が書いたらしく
テニオハのはっきりしない文章だった。
連合艦隊も来ないし、友軍の飛行機も殆ど来てくれないので、
何となく負けたらしいとは感じながらも、敗戦を信ずる者は
誰一人としていなかった、最後までヤンキーと戦い、
がて連合艦隊がきて日本軍が大勝利を揚げるのだと堅く信じていた。
 
 
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塵捨て場から拾って来た新聞、雑誌に見る活字も
『スレンダー オブ ザ ジャップ』と言う字が多くなった。
桜井兵曹が米兵と日本娘が写ったライフの写真を見て、これは横浜の
何処だと言いだした。横浜に進駐している様子だった。
 
また、今まで毎夕100機程度出撃していたBー29も殆ど飛び立たず、
日中も今までより静かな感じになっていた。
日本が負けた事がどうも本当らしく思えてきた。この儘ジャングルに
止まるべきか、一か八か白旗を振って投降するかで迷った。
 
早速伝令を出して総員集合を掛けた。その頃は総員といっても
連絡が取れるのは9人だけになっていた、住吉神社当時は
 30人程いたのだが、今は3分の1以下に減少していた。
 
安住の地もなく、敵の島になってしまったテニアン島は、敗残兵、
山賊と言われる様になった我々には住みにくい島になっていた。
 
戦陣訓には『生きて虜囚の恥ずかしめを受けず』とあり
敵に掴まったら『必ず死ね』と教えられており、戦争に負けたとしても、
国が捕虜になった我々を受け入れてくれるかどうかも大きな疑問でもある。
 
また、鵄部隊の大高分隊士の投降勧誘の事も頭に残っている。
一度投降したがジャングルに帰してもらった者の話しも聞いていた。
ヤンキーは信義を重んじるようであり、投降して殺されることもない様に
思えるが、しかし、ヤンキーの事である、いつどういう事をされるか
分からない。奴隷にされ一生母国には帰れないかもしれない。
 
サイパン島では、玉砕当時、負傷兵を1ヶ所に集めて、戦車で
轢き殺したという話も聞いている。ヤンキーには殺されなくても、
日本に帰ってから殺されるかもしれないなど思い悩んだ。
 
『出るべきか、止まるべきか』親族会議の結論はなかなか出なかった。
桜井兵曹は『俺は志願兵で捕虜になって、おめおめと国に帰れるか』
と死ぬまで戦うと頑張り、どうしても出るとは言わなかった。
私も出身が薩摩で武士道を重んじる風習が強く、父の手紙の
『金谷家の名誉この上なく』を思うと心は2つに割れた。
そして又私と中玉利、稲尾の3人は、いずれも補充兵で、桜井兵曹の言う
志願兵よりは責任も軽く思えた。
 
辻内兵曹は出る方に傾いていた。北斗七星が傾き沈黙の時間が
過ぎて行った。『出ようか』の問いにはっきり『うん』と言うものは
居なかったが『うううん』と囁かれる様になり遂に九人全員揃って
出る事に決定した。
 
出ると決まったら、旨いものから食ってしまおうと、取って置きの
缶詰をあけた。
皆塵捨て場から拾って来たヤンキーの缶詰だった。コンビーフ、
ベーコン、チーズ、バターなどを出し合って、旨い物から食った。
 
ジャングルの最後の晩餐会だった。
旨い物を腹一杯食った喜びはあったが、また出るに当たって
一沫の不安がないでもかった。
着ている物は総てヤンキーの物ばかりである、このまま出て行けば、
山賊、泥棒として処分されるかも知れない。とは言え、
裸で出る訳にもいけない、仕方がないので、着る物はこのままで、
銃や拳銃などの本格的なものは無かったが、武器と見なされるものは
全部捨てる事にした。
 手榴弾、ナイフなどは捨てた、私も背中から取り出した弾を大事に
持ち歩いていたが、やかましく言われては困ると思い捨てた。
 
さて出る段取りは出来たが、どうやって出ればいいのか、私は、
白旗を振って幹線道路を歩く事を提案した。皆も賛成してくれ、白旗は
最年長の北海道出身で設営隊の栗原由喜雄さんが持ってくれる事になった。
 
その白旗は桜井兵曹の取って置きの『ふんどし』だったと思っている。
その白旗をサトウキビの先に付け、万端の準備は整った。
 
これで1982日から続いた、ゲリラ、いや、敗残兵生活とも
別れを告げる事になった。 
 
今日は20916日だと確信していた。
毎日今日は何日だと各人に念を押しながら数えた『日』だった、
事件があって日が分からなくなった時は、住吉神社に行き仲間に
確認した日にちだった。
 
1年1ヶ月間を混乱の中で良く頑張ったものだ。
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しかし、玉砕当時、3~400名は居ると言われた残存兵も、
住吉神社当時で30名、現在は9名だけになってしまっていた。
 
緒方兵長はどうしたのだろうか、彼は食糧探しに行って
帰らなかったのだった。住吉神社から食糧探しに出て、
待ち伏せに遭い帰らなかった者も多かった。
隣の洞窟にいた牛捌きのうまかった大曽根はどこへ行ったのだろうか。
 
いま考えると住吉神社の時代が一番楽しかったように思える。
1年前の事が次々と思い出されては消えていった。皆もそれぞれに
思いにふけっているとみえて誰も声を出さない。その内に、夜が白み始め、
いよいよ過去にさよならを告げ、生かされるか殺されるか、
どうなるか分からない未来を求めて行動を開始する事となった。
  
白旗を振る栗原さんを先頭に1列に並んで夜の白みかかった
幹線道路を歩いた。私は2番目を歩いていた。
 
暫く歩いたが今日に限ってジープもトラックも来ない、
このまま歩き続けるとソンソンの町に出る。変な話だが、
町には敵がいて危ないと思い、引き返して反対に向かって歩いた。
 
しかし自動車は来ない、くたびれた訳ではないが路肩に腰を下ろして
休んだ。設営隊の栗原さんがジャングルで最後の物を出してくると言って、
草を別けて藪に入っていった。
 
暫くして、トラックが来た、栗原さんは出て来ない。
さあ大変である2番目の私は慌てて立ち上がり白旗を振った、
皆立ち上がって並んだ、トラックは私の前でピタリと止まった。
そして運転手は左ハンドルの座席から右側のドアを開け、
皆後ろに乗れと合図する、私にここに乗れと言って、手を差し出して
私を引っ張り上げて助手席に座らせた。
 
栗原さんがまだ帰ってこない。私は困って『ワン メン トイレット』
と言ったら判ったのだろうか、「オケーオケー」といって待ってくれた。
  
暫くして彼が出て来たので私の横に乗せた。そして運転手は私に
銃を持ってくれ言う。その運転手の名前は忘れたが、たった1人で
警戒するでもなく、おじけもせず又ボディーチェックもせずに
我々敗残兵を受入れてくれた。
 
全く我々を敵ではなく自分たちの仲間と同じ扱いで、全然気にしていない
様子だった。そして彼はこれからスタッケード(捕虜収容所)に
連れて行くという。
 
色々話し掛けて来たが『収容所には沢山友人がいるよ』と言っているの
だけが辛うじて分かった。
 
出るまではあれやこれやと心配したが、この分では後々も心配ない
ようであり、先ず、投降の第1段階は無事通過することができた。
途中、陽気な彼は口笛を吹いていた。
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◆ 捕虜収容所

捕虜収容所

 

収容所はフエンスで囲まれた中にテントがあり既に20人余りがいた。
龍部隊車庫の同年兵江越義雄一機がいた。
 
同年兵の湯浅純孝一機はマルポからライオン岩に上がり車庫長と一緒に
東海岸に行ったと言う事だったがその後の様子は分からなかった。
 
住吉神社でデンデン虫の料理方法を教えてくれたり、色々な常識を
教えてくれた設営隊の秦さんがいたので嬉しかった。
 2人共さほど痩せてはいなかったが、中には肋骨が出て二の腕が
指で回る程に骨と皮になった兵隊がいた。
 
彼は食糧が非常に少なくガマ蛙の内臓まで食べたと言っていた。
肝臓の毒に当たったのではなかったろうか。
 
事務室に連れて行かれ、二世の兵隊が通訳しながら簡単なことを聞かれた。
その二世は我々が砂糖黍畑でブルドーーに襲われた時の事を知っていて、
何回も呼び出しに行ったのになぜ出て来なかったのかと不平そうに
言っていた。
 
しかし我々は当時手を上げて出るという事は全く考えていなかったと
答えた。そして彼は食糧はあったのかとか、数日後の台風の時は
どうしていたのかと色々心配してくれていた様だった。
 
それからタイプライターに向かい何か打っていた。
それを辻内兵曹が、いとも簡単に訳してくれた。
 
『アメリカ軍は原子爆弾を開発し、広島と長崎に投下した。
広島と長崎の町は全滅し、向こう30年間は草木も生えない。
日本の国の天皇は無条件降伏をした。その飛行機はテニアンから出発した』
との事だった。
 
原子爆弾とはどんな爆弾だったのか、広島も長崎の町も全滅したとは
本当だろうか。長崎の会社や友人、下宿の小母さんたちはどうなった事かと
心配になった。
 
写真室で顔の正面と側面の写真を撮られ、全指10本の指紋を取られた。
 
支給品の洗面道具入りバッグと貸与品の毛布、敷布、衣類、下着、手袋、
レインコート、食器、湯のみ、ナイフ、フオーク等が日本海軍の衣嚢と
同様の袋に入れて支給された。
 
洗面道具の中には安全剃刀、櫛、歯ブラシ、練り歯磨、糸針鋏等があり、
い糊状の香りの良い物の入ったチユーブがあった、何かと思ったら
髭剃りの時石鹸の代わりに使う物だとの事だった。
 
昨日我々九人を乗せてくれたトラックの運転手が来て、
『君達を連れて来た功績で軍曹になった』と軍曹の肩章を指差し
大喜びで皆と握手をし、煙草やチューインガムを振る舞って帰って行った。
相変わらず陽気な彼は口笛を吹いていた。
 
収容所の所長は、シュナイダー大尉と言い、日本の東京神田の生まれで、
 20才まで東京にいたと言う。
日本語が非常にじょうずで、発音は我々以上に正確で、関西弁、
東北弁など地方弁もよく聞き分け、相手に合わせ地方弁で冗談が言える程、
言葉は達者だった。
 
非常な親日派で我々の労をねぎらって、ある日海水浴に
連れていってくれた。場所は覚えていないが東側海岸の三方
崖に囲まれ坂を降りていった所だった。
 
あまり沖に出ないよう注意された。
テニアン島に来て初めての海水浴だった。
海水浴だなんて日本の兵隊時代には考えられないことであった。
帰りには捕虜にアルコールは禁物というのに缶ビールを飲ませてくれた。
この時すでにアメリカには缶ビールがあった。
私は久し振りのアルコールにすっかり酔って良い気持ちになった。
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投降者名簿

テニアン島最後の投降者四六名は次の通り。

    海軍 三二一空 鵄部隊   中尉  桝谷 五郎  奈良県
    海軍 七六一空 龍部隊 主計中尉  音琴 秀次  長崎県大村市
    〃  五六 警      上 曹  千葉菊次郎
    〃   〃        上 曹  飯田 栄吉
    〃   〃        一 曹  橋爪 輝一  群馬県吾妻郡
    〃   〃        二 曹  遠藤  清  山梨県南巨季郡
    〃   〃        水 長  磯部 利男  鳥取県八頭郡
    〃   〃        上 機  鈴木 清司
    〃   〃        一 水  富田 直治
    〃   〃        一 水  小川 次男
    〃   〃        一 主  尾股 行雄
    〃  五六 警      一 衛  加藤 哲郎  福島県相馬郡
    〃  航艦  司令部  一 曹  岩淵 末吉
    〃  一二一空 雉部隊  飛曹長  酒井 重男
    〃  三二一空 鵄部隊  二機曹  桜井 好平  横浜市保土ケ谷
    〃   〃    〃   飛 長  横川 清士  広島県福山市
    〃   〃    〃   上 整  大曽根周治
    〃   〃    〃   一 機  須田 稲作 
    〃  三二一空 鵄部隊  一 機  丸  隆吉
    〃  七六一空 龍部隊  一整曹  辻内 一男  大阪府
    〃   〃    〃   飛 長  渡辺儀十郎  熊本県玉名市
    〃   〃    〃   一 整  中川 猛雄  高知県高知市
    〃   〃    〃   一 整  広瀬 重徳  高知県土佐郡
    〃   〃    〃   一 機  中玉利英満  鹿児島県姶良郡
    〃   〃    〃    〃   金谷 安夫  鹿児島県鹿児島市
    〃   〃    〃    〃   江越 義雄  佐賀県柳川市
    〃   〃    〃   一 機  稲尾 東見  宮崎県児湯郡
    〃   〃    〃   主 長  青柳 了史  福岡県久留米市
    〃  七六一空 龍部隊  一 主  元矢  強  福井県坂井郡
 
 
 
 
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 海軍 二三三  設営隊  工 員  平出 孝行  長野県茅野市
    〃   〃    〃    〃   森田  等  福井県
    〃   〃    〃    〃   栗原由喜雄  新潟県
    〃   〃    〃    〃   玉屋喜代志  新潟県
    〃   〃    〃    〃   福田  顕  福井県
    〃   〃    〃    〃   中野 敬一
    海軍 二三三  設営隊  工 員  川村 股市
    陸軍 三二一五部隊雷部隊 曹 長  吉田 辰雄
    〃   〃    〃   軍 曹  服部 国忠  長野県
    〃   〃    〃   軍 曹  宮地  貢  愛知県西尾市
    〃   〃    〃   兵 長  中畑 弘三
    〃   〃    〃   上等兵  小栗 留保
    〃   〃    〃    〃   川口幸之助
    〃   〃    〃    〃   野村 久市  岐阜県武儀市
    〃   〃    〃    〃   曽我部関太郎
    〃  三二一五部隊雷部隊 上等兵  林   弘
    陸軍 一三五連隊第一大隊 上等兵  渡辺健次郎  愛知県名古屋市
 
 
昭和217月サイパン島より復員当時は四六名であったが、
『防衛庁研修所戦史室』「二複史料」『テニヤン島帰還報告』によれば
 61名になっている。
  
増加した15名の氏名は次の通りである。
 
 
    海軍 一航艦 司令部   少 尉  前田 利正
    〃  一航艦 司令部   水 長  山下 一雄
    〃  五六警       水 長  亀山
    〃  二二一空      一飛曹  藤田由紀夫
    〃  三二一空 鵄部隊  上 整  荻田 一男
    〃  三二一空 鵄部隊  一 整  桐谷 吉平
    〃  五二三空 鷹部隊  上 整  溝口
    〃  七五五空      上整曹  馬場 虎雄
    〃  二三三  設営隊  工 員  中村  正
    海軍 二三三  設営隊  工 員  平沢 
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   陸軍 三二一五部隊雷部隊 上等兵  五島 信義
   〃   〃    〃   兵 長  中松 久雄
   〃   〃    〃   兵 長  阿部 義正
   〃   〃    〃   上等兵  徳廣 幸満
   陸軍 三二一五部隊雷部隊 上等兵  今井 幸雄
 
 
その他に、テニアン島玉砕後テニアン島を脱出して
アギガン島に渡り復員した者が居た。『テニヤン島帰還報告』
末尾に記載のもの。
 
   
    海軍 三二一空 鵄部隊  水 長  矢島 徳重
    〃   〃    〃   上 水  山田今朝人
    〃   〃    〃   上 水  山崎 金治
    〃   〃    〃   整 長  洞内 正吉
    〃  三二一空 鵄部隊  上 水  大山大三郎
    〃  三二三空      上 整  高橋 筝美
    〃  七六一空 龍部隊  整 長  友定  力
    海軍 七六一空 龍部隊  上 整  保浦 忠二
 
  以上8名である。
  

サイパン島収容所へ

 

テニアンの収容所では何する事もなく、ただ三度々々飯ばかり食って
暮らしていたが、1週間程してサイパンの収容所に移される事になった。
 
敵がテニアン島に上陸した時と同じ型の上陸用舟艇に乗せられて、
テニアンの港を離れた。港を離れてすぐにカロリナス台地が見えて来た、
まる1年間生活した洞窟の付近が良く見える。
 
洞窟周辺に散乱する戦友達のお骨が目に浮かぶ、
 『俺も連れて帰ってくれ』と言っている様な気がする。
 
ソンソンの町はカマボコ型の兵舎がずらりと並んで建っている。
チューロの辺りは幕舎がびっしり立ち並んでいる。
ラソ山を過ぎハゴイに差し掛かった、高さ23メートル程の
黒ずんだ崖の一部が白く平らになった所が2ヶ所あった、
二世の説明では艦砲と爆弾で崖を崩して上陸した所だと言う事だった。
上陸地点の沖は珊瑚礁が白い波頭を見せていた。
 
上陸地点を過ぎるとテニアンの最北端の牛岬である。
ここは敵の空襲が始まった2日目の612日に退避した所だった。
あれから13ヶ月目である。
 
 82日カロリナスの南海岸で守備隊の玉砕を知り、
カロリナス北斜面の洞窟で丸1年、砂糖黍畑でブルドーザーに
襲われた事などが走馬燈の様に思い出される。
 
カロリナスのジャングルに残されている戦友のお骨が気掛かりで
テニアンを離れられない気持ちである。
きっと迎えにくるぞと心に誓いながら何時までも何時までも
島影を見送ってた。
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ドンニーの収容所 (サイパン)

 

サイパンの収容所は天幕の兵舎で、島の北西部ドンニーの
ジャングルの椰子畑の斜面の段々畑にあった。
周囲にはバラ線が張り巡らされ四隅には番兵の塔があった。
 
テントの大きさは5×8メートル程で床は板張りで20人程が入れられた。
 1人のスペースは毛布を横四ツ折りにした幅しか取れず、
ギューギュー詰めの状態だった。
 
龍部隊整備の緒方兵長が作業から帰ってきて、幕舎に尋ねて来てくれた。
死んだものと思っていたのが生きていて再会出来た事を喜びあった。
彼はテニアンで塵捨て場に1人で行き帰って来なかったのだった。
彼の話によれば、塵捨て場に着いたとたん、急に正面からライトで
照らされ数人の兵に銃を突き付けられて取り囲まれた。
立ちすくんでいると横からタックルされ押し倒されて掴まったという。
咄嗟の出来事でびっくりしたが、タックルした米兵隊も恐ろしさの為か
震えていたということだった。
 
道をはさんで隣は米軍のカルポス(留置所)で黒人が多く収容されていた。
ある日、黒人の罪人がMPに連れて来られた。
容所の門の前で黒人が暴れ出し、MPが拳銃を腰から引き抜き
首筋を拳銃で殴打した、黒人は『ウーン』と唸ってその場に倒れ込んだ、
MPはそれを引き摺り込んで中に入れ、ゲートを閉めて何食わぬ顔で
帰って行った。
我々はフエンス越しに一部始終を見ていたが、映画の西部劇のシーンを
目の当たりにしてぞっとした。
 
サイパンに来て数日経った9月末頃台風が来た。
夕方から風が吹きだし夜になって猛烈に吹き荒れ、全員でロープを引っ張り
 柱を押さえて何とか吹き飛ばされずに一夜が明け台風は過ぎ去った。
 
一方、隣のカルポスはテントは全部飛ばされ黒人兵の囚人達は石垣の下に
一塊になってパンツ1枚で震えていた。
国民性が窺えた様で面白かった。
ドンニーの収容所は山の斜面で土地が狭くテントの増設も思うに任せず、
又、テニアン島の南のアギーガン島の兵隊や、他の島から移されて来る人も
多くなった。
収容者が増加してドンニーの山の中の収容所では入りきれず、
広い敷地の海岸の平地に移る事になった。
 

マタンサの収容所

 マタンサの収容所はサイパン島北部にある。

日本軍がバンザイ突撃のために集結した地獄谷の入り口の海側で
日本時代に北村と言われた所で、収容所の北側に『北村の碑』が
建っている。
 
西側が海の砂浜で沖にはリーフ(珊瑚礁)があり太平洋の荒波が砕けて
白く泡立っていた。
東と南は地獄谷からの川で囲まれ、東側の川の先は幹線道路で
絶えず車が走っていた。
 
6人ずつの幕舎で床は板張り、コットというキャンパス製の
折り畳み式簡易ベッドだった。
食堂と烹炊所は南側にあり、カマボコ型屋根の建物だった。
東の山側にシヤワー室、トイレ、医務室があった。
小便の便器はヤンキーの鉄兜にパイプを溶接して、地中に埋めただけの
吸い込み式で、海側のフェンス脇に何ヶ所か設置してあった。
便器に鉄兜を使う等、日本の軍隊ではどう考えても考え及ばない処であり、
日本とアメリカの物に対する認識の違いは大きかった。
 
運動場の西の海側には木造スレート屋根の倉庫、大工小屋、
病室が並んで建っていた。
大工小屋では龍部隊整備兵の緒方兵長と北海道出身の鵄部隊工作兵の
笠原信男さんが家具作りその他の大工仕事をしていた。
 
敷地の方は2重のバラセンの柵で囲まれ、4隅には監視塔があり
常時番兵が警戒していた。しかし、例え逃げたとしても、
前のようにジャングルで生活するしかないので、逃亡するものは
全く無かった。
 
 
57 
 

 121日になって、サイパン島で最後まで頑張った

大場大尉の率いる48人が投降してきた。

これが最後と思われていたが、またしても、1222日に

独混五〇旅団戦車隊の井上清伍長等13名が投降してきた。

そしてこれが本当のサイパン島の最後の日本兵となったのである

サイパン島最後の日本兵

 

南洋憲兵隊土屋学伍長の手記によると大場大尉組48名の
投降状況は次ぎの通り。
 
121日 良く晴れ渡った朝、バナナ、椰子の実、パパイヤで
会食を済ませ730分、タコ山を出た47名は戦車道路に整列し、
大場大尉の『山麓に向かって前進』の号令で先導する私に続いて
広瀬兵曹の掲げる日章旗(菅沼在郷軍人分会長夫人に作ってもらたもの)
を先頭に「露営の歌」を唄いつつ米軍の設けた降伏式場へ降った。
武装したサイパン島日本兵最後の姿であった。 

その名簿は次の通りである。

 
    陸軍 雷部隊      大 尉  大場  栄  愛知県宝飯郡
    〃  岡兵団      少 尉  田口 徳祐  大阪府泉北郡
    〃  誉部隊      曹 長  豊福 芳則  兵庫県佐用郡
    〃   〃       伍 長  安原  茂  岡山県都窪郡
    〃   〃       兵 長  加古  進  愛知県知多郡
    〃   〃        〃   児玉 一二  岐阜県揖斐郡
    〃   〃        〃   沢野修一郎  静岡県小笠郡
    〃   〃       兵 長  吉田 一男  滋賀県栗太郡
    〃   〃       上等兵  内藤 嘉一  愛知県幡豆郡
    〃   〃        〃   草野 正三  滋賀県東浅井郡
    〃   〃       上等兵  永森 末彦  鹿児島県薩摩郡
    〃   〃       一等兵  植坂栄次郎  兵庫県城崎郡
    〃   〃        〃   竹原 浅松  大阪府泉南郡
    〃   〃        〃   浅田 正治  長野県東筑摩郡
    〃   〃        〃   小林亀太郎  静岡県磐田郡
    〃   〃        〃   畑中 春三  秋田県由利郡
    〃   〃        〃   末海 俊夫  宮崎県南那珂郡
    〃  誉部隊      一等兵  増田 牧夫  岐阜県安八郡
    陸軍 南洋憲兵隊    伍 長  土屋  学  岐阜県土岐郡
 
 
 
 
58 

 

    陸軍 備部隊(戦死)  兵 長  枡田 末勝  熊本県下益城郡
    〃  岡兵団      衛 長  寺尾 直正  奈良県磯城郡
    〃  岡兵団      一等兵  丸山儀一郎  奈良県吉野郡
    〃  照部隊      兵 長  片山 政次  和歌山県有田郡
    〃  照部隊      二等兵  大仲 政治  大阪府泉北郡
    〃  佐竹部隊     上等兵  安部 英雄  大分市津留町
    〃  雷部隊       〃   鈴木 政一  愛知県幡豆郡
    〃   〃        〃   松本  進  広島県安芸郡
    〃  雷部隊       〃   清水 百年  愛知県北設楽郡
    〃  独立山砲隊    上等兵  山寺 幸夫  鹿児島県川辺郡
    陸軍 有馬部隊     一等兵  松浦栄太郎  北海道十勝郡
 
    海軍 虎部隊      上機曹  広瀬  新  佐賀県佐賀郡
    〃  虎部隊      水 長  谷本 貞夫  香川県木田郡
    〃  九〇一航空隊   上飛曹  鈴木冨久二  香川県小豆郡
    〃  唐島部隊     一 曹  伊藤竹四郎  北海道函館市
    〃   〃       一 曹  高光 義雄  広島県安芸郡
    〃   〃        〃   清水 力雄  愛媛県北宇和郡
    〃   〃       一 曹  北  友行  石川県能美郡
    〃   〃       二 曹  伴場 義平  埼玉県大里郡
    〃  唐島部隊     上 水  内田 雅之  岡山県苫田郡
    〃  五根司令部    機 長  新倉 幸雄  長野県東筑摩郡
    〃   〃       水 長  秋葉 義一  千葉県山武郡
    〃   〃       軍 属  石崎 昭明  滋賀県伊香郡
    〃   〃       軍 属  江口  修  山形県東置賜郡
    〃  五根司令部    軍 属  出羽 平治  岩手県気仙郡
    〃  五五警備隊    水 長  戸梶 洋一  高知県安芸郡
    〃  四一警備隊    一 水  白田 宙夫  山形県西村山郡
    〃  軍需部      一 機  征矢  増  長野県上伊那郡
    海軍 病 院(死亡)  軍 属  坂井 西雄  福井県今立郡
 
 
59 

 

以上が48名が降伏したので、サイパン島には日本兵はいないことに
なっていたが、1222日になり新たに、井上伍長率いる
 13名が出てきた。井上清伍長の手記『戦歴』によれば次の通りである。
 
米軍第一八海兵隊長カーギス中佐は沖縄戦で捕虜になった海軍参謀の
伊東昌少佐を通訳として伴いカラベラ台地で会見しパガン島の司令官
天羽少将の無条件降伏の命令伝達や、大場大尉以下48名の121日の
武装解除の経過を聞き、現存する13名の処遇その他を交渉し投降している。
 
交渉事項 
  一、我々は日本軍人として捕虜にはなれない、如何なる待遇をするのか。
    
     答  捕虜ではなく命令による武装解除兵として扱う。
 
  二、今日まで戦ったことをどう証明できるか。
 
     答  本官が証明書にサインして13名に渡す。
 
  三、どんな扱いをするのか。
 
     答  収容所で十分休養させ負傷者は手厚く看護する。 
 
  四、いつ日本に帰国させるのか。
 
     答  1ヶ月後に日本から駆逐艦が迎えにくる。
 
昭和201222日 投降者
 
陸軍 獨混五〇旅団  戦車隊 伍 長  井上  清  福岡市浪人谷
〃  一一五飛行場大隊佐竹隊 兵 長  吉田 宗義  島原市本馬場
〃  誉一一三六歩一三六連隊 上等兵  佐光 武雄  岐阜県加茂郡
〃  備一八五六臼砲一七大隊  〃   奈木野繁蔵  福岡県鞍手郡
〃  柏四六五六歩一五〇連隊  〃   林  茂美  長野県小県郡
〃  誉一一三九歩一一八連隊  〃   尾崎勲太郎  静岡県浜名郡
〃  備三二一九 雷 部 隊 上等兵  大井 一郎  愛知県豊川市
〃  一一五飛行場大隊佐竹隊 一等兵  大場庄次郎  山形県東置玉郡
陸軍 誉一一三五 九 部 隊 一等兵  鈴木 繁男  静岡県熱海市
海軍 落下傘   唐 島 隊 水兵長  平沢  栄  茨城県多賀郡
〃  ウ三七四  中 島 隊 一水兵  山崎 哲司  新潟県仲領郡
〃  ウ三七一  高 島 隊 一水兵  和田  淳  茨城県多賀郡
海軍 ウ二二六  坂 口 隊 軍 属  沢津橋末吉  鹿児島県川辺郡
 
60 

収容所生活

 

収容所の1日は朝の点呼から始まる。全員運動場に整列し人数を数える、
若し足りない場合は全部の幕舎を回って捜すので大変だったが、
逃亡する者は全く無かった。朝寝坊してサボッても、結局は叩き起こされ
作業につれ出されていった。
 
作業は迎えのトラック1台に20人ずつ乗り各作業場に行く。
仕事は材木運び、セメント運び、道路補修、コンクリート運び、草刈り、
洗濯等の労働だった。
 
プエルトリコの港の荷揚げ作業は、材木やセメントを倉庫に運んだり、
倉庫からトラックに積む仕事で、材木の重いものは23人で
運べば良かったが、セメントは1人で担がねばならず大変だった。
 
道路工事は路面の穴にはカスカと云う珊瑚礁の砕けたものを入れ、
路肩の崩れた部分を補修したり、アスファルト工事等、道路補修の
仕事が多かった。
 
建設現場ではミキサーで練った生コンクリートを一輪車で運ぶのは
バランスを取るのが難しかく閉口した。
又水を一輪車で運ばされたがガブリが多くうまく運んでも半分運べれば
良いほうだった。
 
草刈りは長さ40センチ程の蛮刀を使っての作業だったが、
日本の鎌に比べ目方が重く草刈りには不向きだった。
 
作業場にも港の荷揚げ作業や道路工事等の重労働と草刈りや洗濯等
軽作業があった。
殆どの軽作業には捕虜生活の長古参の者から順に行くので、我々新米は
何時も重労働ばかりだった。
 
早いものは敵が上陸して直ぐ掴まり捕虜になっているので、私跡達より
 1年以上長い ものもいた。番兵の数かぞえに面白いことがあった。
 2台のトラック40人作業に行く場合、1台目の番兵が人数を
指折り数えて一九人だった、2台目の番兵も人数を数え21人の時、
 2台共数が合わない。
 
一方が多くて他方が少ないのだから丁度良いと言っても
どうしても聞き入れなかった。そして、人間移動させ改めて
両車共又指折り数えて、両方が各々20であれば初めてオーケとなり
出発する。
それを見て日本の兵隊が俺たちの方が頭が良いぞと威張っていた。
 
番兵の中に作業の辛さを考えて適当に休みを与えてくれるものもいた。
そして、車座になっていろんな話を聞いた。
 
話は英語で半分も分からなかったが、身振り手振りで大体の事は
かった。自分の家は何処の田舎で牛や鶏がいたとか、
兵隊になって13ヶ月まだ1回も故郷に帰っていない、
父母兄弟はどうしているだろうか等と言い、写真を出して見せて
くれたりした。
 
俺たちも早く帰りたいと言うと、彼も頷いてくれて、お互い慰め合った。
我々を散々痛めつけた彼等だったが、お互いに敵愾心は全くなかった。
国は敵と味方でも兵隊同志は血のかよった人間どうしだった。
また今迄彼等をヤンキーと言っていたのが、アメチャンと言うものも
出て来て、親しみは深くなって行った。
61
 
 

 黒人兵の作業場に行ったときなどは、俺たちと肌の色が同じで

友達だと云ってとても歓待してくれた。

君等はライスが好きだろうと言っては、昼食にはわざわざ御飯を

炊いてくれた。旨いと言って食べると、とても喜び、

白人より君達が好きだと言ってくれた。

 
MPの番兵は長袖の上衣を腕捲りもせずにきちんと着用し、
米軍独特の帽子をかぶり、靴に脚絆の正式な服装であった。
そして、何時もアイロンがかかり、折り目のピントしたきちんとした
服装をしていた。
 
それに対比して一般の兵はシャツやズボンにわざと穴を明け
風通しを計ったりであったが、MPは威厳を保つ為か何時も寸分の
乱れも無い出で立ちであった。
 
又、番兵の銃は散弾の二連装の猟銃だった。近距離で逃亡者を撃つには
適した銃だった。小さな散弾でも当たると相当のダメージを与える事
間違いなく、命中率も非常に高い。
 
彼等の考えは私たち一等兵が考えても日本より優れている様に思われた。
この様に小さな事の一つずつが勝因に繋がったのだと思った。
 
作業から帰ると収容所のゲート前で身体検査が始まる。
手をあげて番兵の前に進むと腰のあたりをぱたぱた叩いてオーケーとなる。
そして、上にあげた手には波止場で貰った材木や、兵隊から買ったり貰
った物を抱えていても全く平気で、身体検査はおざなりなものだった。
 
しかし、逃亡その他トラブルを起こした事もなかった。
逃亡者もいなかった。それはいくら逃げても小さな島では
行き場所がない事は敗残兵生活時代に嫌という程知っていたからだった。
 
収容所に帰ると先ずシャワーだった。
時折お湯を出してくれて有り難かった、南洋でも夕方ともなると風も
 涼しくなり、水では冷たい事があったので給湯はとても有り難かった。
 
シャワーを浴びると、作業の辛さも捕虜という事を忘れ人間にかえった
いだった。
この時間になると何時も決まって、グアム島での戦利品だという
レコードの歌をスピーカーで流してくれるのであった。
  
 幌馬車の歌
 
  夕べに遠く木の葉散る
  並木の道をホロホロと
  君がホロ馬車見送りて
  こぞの別れが永遠(とこしえ)に
 
哀愁を帯びた歌声に、我々はいつ帰れるのかなー!
シャワーを浴び夕風に吹かれながら恋人の事を思い、暫く感傷に
浸る時間でもあった。
 
食事は大食堂だった。
厨房の作業員は仲間内で軍隊当時主計兵だった中から選ばれた者達だった。
食糧は米とアメリカの缶詰めだったが、金曜だけはフライデーと云って、
鮮魚のフライが出た。
 
カリフォルニア米の御飯と、おかずは缶詰めを温めた物で、
 馬鈴薯とコンビーフを煮たものが多かった。
デザートに缶詰めのフルーツが付き、お茶替わりにレモンジュースが
付いていた。
カリフォルニア米は日本軍時代の白い虫がいた飯よりもうまく、
また米軍の方が給与が良く皆丸々と太っていた。
62 

幕舎の入り口にはカンナやマリーゴールド、きんせんか等の

草花を植えて飾った。その草花は作業に行って貰って来た物だった。

又我々の仲間に文筆家がいて彼等が書いた恋愛小説や探偵もの等皆で

回し読みして内地の故郷を傀んだものだった。

 
楽器を楽しむ者が集まって、南十字星というバンドをつくり
月に12回演奏会を開き、収容所の所長やヤンキーの兵隊にて貰い
喜ばれた事もあった。
 
ギター、トランペットその他楽器は総て作業に行きそこで
貰って来た物ばかりだった。また、布を貰ってきて服を作り
揃いの制服まで揃えていた。
 
兵隊は皆器用で坊主から牛殺しまで大抵の職業の者が揃っていた。
無いものは産婆さん位いのものだった。
 
絵のうまい者はハンカチに富士山と女の絵を書き
「フジヤマ・ゲイシャガール」といって、作業場の米兵が一ドルで
良く買ってくれた。
 
誰か下絵を書くとそれを写して全体に広がり日曜日は
俄か絵描きが多かった。
 
日曜日の仕事のもう一つは銀の指輪作りだった。
当時のアメリカの貨幣には、銀製で25セント50セント1ドルの
銀貨があった。
 50セント銀貨が指輪には適当な太さだった。
リングにハート型の飾りが付いた丈の物だったが、23ドルで
米兵や黒人兵が良く買ってくれた。
 
その作り方は、先ず50セント銀貨を用意し、木の節の上に銀貨を立てて
乗せ、銀貨の縁をスプーンの腹で軽く丹念に回しながら叩くと横に広がり
側に縁が出来る、ハートになる部分は回数多く叩くと広がってくる。
 
大事な事はティースプンで軽く軽く叩く事と、下の台は木の節が一番で
鉄の台を使うと駄目だった。
また、金槌で叩いても2つに折れ曲がって駄目になった。
縁叩きが終わったら鏨でリングに切抜きヤスリとサンドペーパーで
仕上げたあと、歯磨粉を付けて布でこすればピカピカに仕上がる。
 
日曜日は何処に行ってもチンチンと銀貨を叩く音が聞こえていた。
設営隊の朝鮮人は、我々とは別に収容されていたが絵を書いたり、
指輪を作ったりしたのは日本人の捕虜だけではなかったかと思う。
 
また、作業に出た日は一日80セントの日当が支給された。
民間人は50セントだと言っていた。
直接現金は貰わなかったが日本に帰ってから、アメリカの駐留軍に
支払ってもらった。
日本の軍隊の給料より高かったと思う。
日本では一等兵は月1150銭だった。捕虜が25日働いて月に20ドルで、
レートを1.5円として30円となり約3倍近くだった、
これも国力の差だったのか。

ゴーホーム

収容所の生活にも慣れてきて、昭和21年を迎えた頃から、

作業場でゴーホーム(帰還)の話を聞くようになった。

米兵の帰還や交替の話が増えると同時に、日本の民間人の帰還も

聞くようになり、捕虜も間もなく帰還する様になるだろうと、

米兵に聞くようになった。

 
2月下旬 捕虜収容所の入室患者の一部の十数名の帰還が正式に決まった。
海軍龍部隊の津田兵曹、陸軍の五島信義兵長、設営隊の秦さんなどである。
津田兵曹は私と同じ部隊の上司で傷病を負って入室していた。
津田兵曹らの十数名がサイパンから復員した第一のグループで、
 3月上旬サイパン発だった。
そして、津田さんが内地に帰ったら私の自宅に手紙を出してくれるよう
 住所と父の名を書いたメモを渡して頼んでおいた。
 
 
63
 

第二陣の復員

 第一陣の津田兵曹らを送り出したその日の夕方、

灯台山のネービーヒルに作業に行っていた者が帰ってきて、

手旗信号で帰還者1人と通信したと言う。

 

船は日本国籍で乗組員は総て日本人で、日本人の抑留者、

主として沖縄出身の民間人が乗船しており、日本に帰るのは

間違いないとの事であった。

これを聞いて一同安心した。今までは、各地から捕虜が送られてきて

人数が増えるとその分だけアメリカ本国に送られていたので今回も

アメリカ送りではないかと心配する向きもあった。

 

アメリカに送られると戦争捕虜として又奴隷として使われ、永久に

日本には帰れないと言う噂も流れていた。

 

ゴーホームと言うとたまらなく嬉しい半面、もしアメリカに連れて

行かれ奴隷にされたらと思うと、喜んでばかりでは居られなかった。

 

しかし戦争も終わって半年以上たっているし、まさかアメリカ送りでも

あるまいと思いながらも一抹の不安がないでも無かったが、

これでひと安心と言う事になったのである。

 

その後も、サイパンでは相変わらず捕虜生活の暑い日々が続き、

津田兵曹が手紙を出してくれて、家では皆が喜んでくれていると思いながら

故郷の事を思い浮べていた。

 
3月に第一陣を送り出してから3ヶ月過ぎた。
 6月になり間もなく第二陣が帰還すると発表になった。
 
それは第一陣と同じく入室患者で私を含め24名に決まった。
私はテニアン島での洞窟生活ですっかり体調を崩して足の神経痛で
僅かしか作業に出ず殆ど入室していた。
 
私も津田兵曹の様にキャンパスを貰ってきてリュックサックを作った。
ハンカチに絵を書いてためたお金で30ルの時計を買った。
当時としては珍しく秒針の付いたものだった。
 
15日は貸与品の一部返還すると同時に、新たに支給された物もあった。
返還したものは、手袋、レインコート、かや、毛布は二枚の内の一枚を
返還した。新たに支給されたものは、綿半ズボン1、靴下1足、
綿ランニングシャツ1などであった。
 
日本びいきの収容所の所長は、日本の内地の主要都市は焼夷弾で焼かれ、
物資が非常に不足しているから支給品はなるべく良い物と交換して
持って帰れと言われた。
 
敵ながらも人情のある人だった。持ち帰り可能な支給品は、ベルト1 
帽子1 半ズボン3 ハンカ1 上衣(サージ)2 編み上げ靴1 
靴下(綿褐色)3 ズボン(サージ)2 綿ランニングシャツ3 
衣嚢(いのう)1 毛布(純毛)1 食器 コップ フオーク 
ナイフ スプーン各1と洗面具一式だった。
 
ズボンの膝頭には捕虜の頭文字のPとWを書くことになっていたが、
内地に帰ってから消せるように歯磨粉で白く書いた。
 
18日は最後の病状診断があった。私は神経痛で全快の見込み無く、
日本への送還が決定された。
 
73日朝、事務所の前に帰還姿で整列、持ち物の点検を受ける。
全員異常なく点検終了。
収容所長が、日本国中戦争被害で消失した都市が多く、
食糧も物資も乏しく、国家再建のために諸君は一日も早く病を治し、
再建に努力するようにと挨拶があった。
 
トラックにて波止場に向かう。岸壁には夢にまで見た日本の船が
係留している。筑紫丸7,000トン程の貨物船である。
 
甲板の手摺は人で埋め尽くされていた、その顔は皆日本人の顔であり
一安心であった。付近で作業をしていた米兵たちが
『お前たちは良いなー俺たちも早く帰りたいよ』と言っていた。
 
見送りに来てくれた二世の兵に別れを告げ、船員の指示で所定の場所に
落ち着く。船倉を二段に仕切りむしろを敷き横に寝るだけのスペースしか
無かった。天井は低くしゃがんでしか歩けなかった。
 
64 

 紛れもなく日本船であり、沖縄を経由して鹿児島に

入港する予定だと言う。直接郷里の鹿児島に上陸できる事となった。

 

いよいよ本当に帰国できる事になった。嬉しさはこの上もないことである。

 3月の例に倣って手旗信号に達者なものが甲板上に出て、手旗信号を始める。

 

 早速灯台山と呼んでいたネービーヒルに作業に出ていたものが応答してきた。日本船であり、民間の抑留者が乗船しており沖縄経由で鹿児島に入港する

事などを通知した。ネービーヒルの作業員は安心した様子だった。

 

我々は残留者の健闘を祈ってサイパン島に別れを告げた。サイパン島には

 55,000の英霊が眠ったままであり、またテニアン島にも私の戦友

 15,000がジャングルに放置された儘であり、後髪を引かれる思いである。

 

何時か必ず迎えにくるぞと堅く心に誓い唇を噛み締めた。

 悪夢の島を去ることで晴々とした気持ちになるどころか、残していく

英霊への思いが募るばかりであった。

 

そして夕暮れにかすみ遠ざかる二つの島影を何時までも何時までも見送った。

船室に戻ると戦災状況の地図が回覧されてきた。

私の郷里の鹿児島市内は殆ど消失している様である。目を凝らして見ると

の実家の付近に赤線が引かれている、どうやら焼けたか残ったか、

ぎりぎりの所であり家族の安否が気遣われた。

 

東京を始め日本の主要都市は殆ど焼失を示す赤で塗り潰されている。

 

テニアン島で毎日夕方から飛立って行った飛行機の仕業だったのである。
テニアン・サイパンを奪られていなかったらこんな事にならずに
すんだのにと思い胸の痛みを感じる。
 
テニアンで敗残兵になり、毎晩砂糖黍をかじりながら、飛立っていく
Bー29の数を数えたが、その数は毎日100機以上だった。
多い日は120を数えた事もあった。
サイパンから飛立つ数を合わせると200機を越える数だったと思っている。
 
凄い数の飛行機が飛立つと思っていたが、内地では殆どの都市が
壊滅する程の被害を受けていたのであった。
 
筑紫丸の船内では我々は何もする事がなくただ食うだけの生活が続いた。
トランプのばくちの好きなもの達は煙草を賭けて朝から、
「チョウ」だ「ハン」だとやっていた。
 
私は太平洋の大波に揺られ、主機械のタービンのキーンと言う音や
プロペラが波を切るバッバッという音を聞きながら、1人で飽きもせず
トランプの占いをしていた。
 
77日 沖縄の那覇着、沖停まりで抑留者の大半が下船した。
奄美大島の名瀬に立ち寄って筑紫丸は北上する。
 9日朝、佐多岬の灯台が見えてきた。夢にまで見た故郷の景色である。
これが本当の九州の南端の大隅半島である。
 
紛れもなく日本であり、懐かしい日本本土である。
朝風に吹かれながら頬をつたう涙は止まらなかった。
 
サイパン島に比べはるかに大きく、山も高く大きかった。
左舷には私も登った事のある薩摩富士と言われた開聞岳が優美な姿
現してきた。
鹿児島湾に入ると正面に桜島がどっかと腰を据えている。
鹿児島である。前方には沢山の船らしいものが点の様に見える、
近付くにつれそれらは砲艦以下の小形艦ばかりであった。
これだけの軍艦がありながらどうして負けたのかと思われが、しかし、
これらの小型艦では戦いにはならないであろう。
市街地が近付いてくる。しかし船内で見た写真と同様に市内は殆ど
焼失している。かろうじて山手に幾らか焼けずに残った家が見える、
本当にひどいものである。
戦争が終わってから約1年たった今日でもトタン葺きのバラックが
主な建物である。
かくして各自の思いを乗せた復員船筑紫丸は鹿児島港に接岸した。
それから筑紫丸での最後の昼食が出る。
お世話になった船員に別れを告げて下船した。
65 

パート6へ続く