戦陣の日々 金谷安夫著
パート5 戦記 掃討戦と終戦 ~
投降
◆ 捕虜収容所
捕虜収容所
投降者名簿
テニアン島最後の投降者四六名は次の通り。
サイパン島収容所へ
ドンニーの収容所 (サイパン)
マタンサの収容所
マタンサの収容所はサイパン島北部にある。
12月1日になって、サイパン島で最後まで頑張った
大場大尉の率いる48人が投降してきた。
これが最後と思われていたが、またしても、12月22日に
独混五〇旅団戦車隊の井上清伍長等13名が投降してきた。
そしてこれが本当のサイパン島の最後の日本兵となったのである
サイパン島最後の日本兵
その名簿は次の通りである。
収容所生活
黒人兵の作業場に行ったときなどは、俺たちと肌の色が同じで
友達だと云ってとても歓待してくれた。
君等はライスが好きだろうと言っては、昼食にはわざわざ御飯を
炊いてくれた。旨いと言って食べると、とても喜び、
白人より君達が好きだと言ってくれた。
幕舎の入り口にはカンナやマリーゴールド、きんせんか等の
草花を植えて飾った。その草花は作業に行って貰って来た物だった。
又我々の仲間に文筆家がいて彼等が書いた恋愛小説や探偵もの等皆で
回し読みして内地の故郷を傀んだものだった。
ゴーホーム
収容所の生活にも慣れてきて、昭和21年を迎えた頃から、
作業場でゴーホーム(帰還)の話を聞くようになった。
米兵の帰還や交替の話が増えると同時に、日本の民間人の帰還も
聞くようになり、捕虜も間もなく帰還する様になるだろうと、
米兵に聞くようになった。
第二陣の復員
第一陣の津田兵曹らを送り出したその日の夕方、
灯台山のネービーヒルに作業に行っていた者が帰ってきて、
手旗信号で帰還者の1人と通信したと言う。
船は日本国籍で乗組員は総て日本人で、日本人の抑留者、
主として沖縄出身の民間人が乗船しており、日本に帰るのは
間違いないとの事であった。
これを聞いて一同安心した。今までは、各地から捕虜が送られてきて
人数が増えるとその分だけアメリカ本国に送られていたので今回も
アメリカ送りではないかと心配する向きもあった。
アメリカに送られると戦争捕虜として又奴隷として使われ、永久に
日本には帰れないと言う噂も流れていた。
ゴーホームと言うとたまらなく嬉しい半面、もしアメリカに連れて
行かれ奴隷にされたらと思うと、喜んでばかりでは居られなかった。
しかし戦争も終わって半年以上たっているし、まさかアメリカ送りでも
あるまいと思いながらも一抹の不安がないでも無かったが、
これでひと安心と言う事になったのである。
その後も、サイパンでは相変わらず捕虜生活の暑い日々が続き、
津田兵曹が手紙を出してくれて、家では皆が喜んでくれていると思いながら
故郷の事を思い浮べていた。
紛れもなく日本船であり、沖縄を経由して鹿児島に
入港する予定だと言う。直接郷里の鹿児島に上陸できる事となった。
いよいよ本当に帰国できる事になった。嬉しさはこの上もないことである。
3月の例に倣って手旗信号に達者なものが甲板上に出て、手旗信号を始める。
早速灯台山と呼んでいたネービーヒルに作業に出ていたものが応答してきた。日本船であり、民間の抑留者が乗船しており沖縄経由で鹿児島に入港する
事などを通知した。ネービーヒルの作業員は安心した様子だった。
我々は残留者の健闘を祈ってサイパン島に別れを告げた。サイパン島には
55,000の英霊が眠ったままであり、またテニアン島にも私の戦友
15,000がジャングルに放置された儘であり、後髪を引かれる思いである。
何時か必ず迎えにくるぞと堅く心に誓い唇を噛み締めた。
悪夢の島を去ることで晴々とした気持ちになるどころか、残していく
英霊への思いが募るばかりであった。
そして夕暮れにかすみ遠ざかる二つの島影を何時までも何時までも見送った。
船室に戻ると戦災状況の地図が回覧されてきた。
私の郷里の鹿児島市内は殆ど消失している様である。目を凝らして見ると
私の実家の付近に赤線が引かれている、どうやら焼けたか残ったか、
ぎりぎりの所であり家族の安否が気遣われた。
東京を始め日本の主要都市は殆ど焼失を示す赤で塗り潰されている。
パート6へ続く