戦陣の日々 金谷安夫著
パート7 昭和60年遺骨収集 ~
その上の台地には監視所のコンクリートの建物があり
観測窓は南西 海上を睨んでいた。
付近のジャングルには散兵壕のような長い窪地があった。
六体の遺体は砲座の左側にあったと言う。
サイパンから団長も駆けつけ張り切って作業に掛かる。
ブルが立ち木を払い掘り始める、傾斜が急でブルが難渋していた。
団員は固唾を飲んでブルの動きを見守る。
砲身の位置から、ここぞと思われる位置まで掘ったが何も出てこなかった。
午後は埋もれた砲身を掘り出だす事となった。
ある程度までブルで掘り、あとはスコップで掘る。
長さは6.3メートルでカロリナスの砲台の物と同じであり、
サイパンの軍艦島の物とも同じに見えた。
サイパンの軍艦島の物は明治36年製造だったのでこの砲がどれだけの
威力があったかは疑問である。
3月16日 アメリカの考古学者の遺骨の調査。
遺骨安置所
顎の無いもの、破損したもの顔面がないもの、中には弾丸の
貫通したと思われるものもあり悲惨である。
戦死してから40年、歴戦の勇士の姿は今遺骨仮安置所内部はなく、
ただ一つのドクロと化して哀れである。
サイパン警察署の裏庭にある下段の大腿骨などの長い骨は229体分となると
上段との間で苦しそうである。
その横には、認識票の出たもの即ち氏名判明可能なもの七体が1体分ずつ
袋に入れられ納められ、その他の骨は大きな麻の袋に入れられ安置してある。
その前にはテーブルがあり、線香、ローソクが供えてある。
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3月18日 焼骨準備および焼骨作業
引き続き献花、
ブーゲンビルの赤い花を捧げる。
団長に続き日本遺族会、戦友会、南興会、
日本青年遺骨収集団の順に献花を行う。
サイパン領事、現地歴史保存官、
その他一般参列者の献花あり。
14時00
10時30分
タコ山の遺骨収集
昭和62年遺骨収集
昨年の台風で山の立ち木が相当数倒れ、残った木もほとんど
葉がない状態で、ジャングルになっていたタガンタガンの木も、
枝だけで枯れた物が多く、ある所は木や枝や葉で地表は見えず、
歩く事さえ困難な状態であり、またある所は地上のものは吹き飛ばされて
表土が現れお骨が露出した所もあり、遺族会が行ったタナパグ海岸では、
連日多数のお骨を収容したことなど、お骨が露出して見付かり易く、
いい面もあったが、山歩きは倒木が多く非常に困難であった。
テニアン島も同じ状態だった。
やかましい地主が保管している十数体のお骨だけでも提供するよう
市長や有力者を通じて頼んだが全然聞き入れられず お骨は
ダンボール箱に入れて小屋に置かれたままになっている。
集団埋葬地発見か
3月10日 サイパン島、タナパグの住宅地で、
キドさん宅の水道管と電話線敷設時にお骨が出て、
掘り残しているので掘ってくれとのことであった。
ブルドーサーを入れショベルで堀り始める。
砂地であり作業ははかどる。深さ1メートル程掘ってお骨が現れ始めた、
あとはスコップと手かぎで丹念に掘り、お骨の砂を刷毛で払い
歴史保存官の検査を受けて取り上げる。まるで遺跡の発掘のようである。
6体の遺骨と鉄兜も出てきたので、兵隊に間違いないものと思われる。
3月14日 焼骨準備
プンタンサバネタ海岸
昭和63年の遺骨収集は2月22日から3月11日までの
19日間であった。
2月26日 プンタン・サバネタ海岸、崖と丸い大きな小山のような
岩の間に足のかがとの骨を発見した、周囲が岩で囲われ、お骨が
流出する恐れのない様な場所だった。
リュックを下ろし、周辺の草木を除き作業を開始する。
掘り進むに連れてお骨が続々と出て来た、流失はしていない様子である。
歯も出てきた、大人の歯に比べて小さいようだ。
全体的に見てお骨が小さく子供ではないかと思われた。肋骨が出てきた、
大人の肋骨に混じって手のひらに乗る小さなものがあった、
大きさから推定して乳飲み子の肋骨と思われた。
子供の骨が多い。半分土に埋まった大人の頭蓋骨があった、
下半分はなかった、良く見ると弾の当たった穴があった。
女物の櫛があった。これらのお骨や遺品から、ここに居たのは母親と
小児と乳飲み子の三人だったと考えられる。
母親は頭を打ち抜かれて即死しのだろう。その時子供達は
どうしていたのだろうか、色々な事が考えられる。
全く抵抗力のない母と子であった、人民を守る筈の軍隊は
守ってくれなかった。
当然死ぬべきだった兵隊が生き残り、今彼等のお骨を拾っている。
今野順子さんの追悼文は文章ばかりてなく、朗読が非常に上手で
聞く人の涙を誘った。私のビデオ第一作の『慟哭』平成元年作に
一部使わせてもらった。
最後の焼骨の場面で今野さんの朗読を流したら、見る人の心を強く
揺り動かすことができた。
パート8へ続く