戦陣の日々  金谷安夫著  最終章

思い悩み考えた事

平成8年に自叙伝『戦塵の日々』を出版したが、その後今回の

IT化の折に色々と思い悩み考えた事を書き残しておく

 
先の太平洋戦争の戦没者遺骨収集で厚生省がマリアナ諸島の
サイパン島テニアン島の遺骨収集を始めたのは昭和28年で
本格的に開始されたのは昭和45年頃からであった。
 
 その後昭和63年まで順調に行なわれたが、平成になってからは
何故か回数がへり、平成7年以降はなぜか多くの遺骨を残した侭
実施されていない。
 
私はその戦にテニアン島の航空隊の兵士として参戦し米軍の攻撃を
受け部隊は玉砕する中でくしくも生還した。昭和49年
慰霊旅行を始め厚生省の遺骨収集団が來島している事を知り
私もそれに参加したいと奔走した。
 
そして願いがかない昭和59年から平成6年まで8回
参加する事が出来た。
その作業は戦争の残酷さ悲惨さが凝縮し濃縮されていて
『死んだら骨を』と言った戦友の言葉が現実のものとなった
一とコマであった。

富国強兵の時代

私がこの世に生をうけたのは大正9年で西暦では1920年であった。

日本は明治の初めに開国し、西洋諸国の列強に刺激され遅れを取り戻すべく

軍事大国を目指して突き進む時代であり、その概要は次の通りであった。

 
 
明治27年 清国(中国)に宣戦布告し、日清戦争が勃発した
明治37年 ロシアに宣戦布告し、日露戦争勃発
明治43年(西暦1910)8月23日日韓併合条約調印富国強兵が叫ばれだした
 
大正3年に第一次世界大戦が始まり、日本はドイツに宣戦布告独領南洋諸島をを占領した。
 
大正7年に第一次世界大戦争が終結し、パリの講和会議で、赤道以北の南洋
群島の委任統治国になった。
    
昭和06年に満鉄の路線爆破の柳条溝事件により満州事変が勃発       
昭和07年には満州国が誕生した
昭和12年に北京郊外の盧構橋で夜間演習中に中国軍が発砲して衝突し、
支那事変が勃発した 。
 
昭和14年05月 ノモンハン事件勃発し、大敗を喫した。
  〃 09月ドイツ軍ポーランド侵入第2次世界大戦争始まる。
昭和15年 紀元2600年で国中がわきかえっていた。
昭和16年12月08日 対米英両国に宣戦布告 大東亜戦争開始、
真珠湾攻撃の戦果に酔い国民はわき立っていた。
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昭和17年06月05日 ミッドウェー海戦で大敗、後ち玉砕が続く
   〃 12月08日 ニューギニアのパサブア守備隊玉砕
昭和18年05月29日 アッツ島守備隊玉砕
 
〃   06月01日 この様な状況の中で私は召集を受けた
〃   11月24日 ギルバート諸島のマキン・タラワ玉砕
 
昭和19年02月06日 マーシャル諸島クエゼリン・ルオット玉砕
〃   07月07日 マリアナ諸島のサイパン島守備隊玉砕
〃   08月02日   〃    テニアン島守備隊玉砕
〃   08月11日   〃    グアム島 守備隊玉砕
〃   11月23日 パラオ諸島のペリリュー島守備隊玉砕
昭和20年03月17日 硫黄島守備隊玉砕
〃   06月23日 沖縄戦終結 沖縄県民、鉄血勤皇隊や
         ひめゆり部隊学徒ら、軍と運命を共にした
〃   08月06日 広島市 原子爆弾で被災した
〃   08月09日 長崎市 原子爆弾で被災した
昭和20年08月15日 大東亜戦争終結 敗戦 (西暦1945
 
           私はテニアン島にとり残されてしまった
昭和21年07月10日 復員 (西暦1946

かくして、軍国主義華やかなりし大日本帝国は、敗戦国となって滅び

只の日本国となり果ててしまったのである。

 

 

私の知った事実

昔の事を振り返ってみると、明治27年の日清戦争勃発時には、

 祖父福三郎は明治7年生まれの20歳の時で、28年の講和条約締結で

 台湾が日本領となった。

 

明治37年の日露戦争勃発時には、祖父は30歳で御用船に乗っており

参戦したと聞いている。当時父はまだ12歳の少年で戦果を聞き奮い立つた

時代だったと思われる。

 
38年9月の日露講和条約調印でロシアから南樺太を獲得した。
明治43年には日韓併合条約が調印され、朝鮮半島を獲得した。
そして富国強兵が叫ばれるようになった。
 
大正3年の第一次世界大戦当時は父も23歳、祖父41歳で、
南洋群島委任統治国になったことに心を轟かせた事だろうと思われる。
 
軍備増強、領土拡大で軍国主義の盛んな時代の世相のなか、
私は大正9年に生まれた。
 
満州事変が始まった昭和6年は、私はまだ小学校の5年生で戦争のことなど
分からない年であったが、昭和7年満州国の建国が宣言され、
国民の中には新天地を求めて満州に渡るものが多かった。
 
私が工業学校5年の昭和12年7月7日に支那事変が勃発し、
鹿児島の陸軍歩兵第45連隊の錬兵場の隣にあった学校で は軍事訓練が
強化され戦意増強の時代だった。
また、杭州湾上陸、太原占領、南京占領などのニュースで国民は
わきかえっていた。
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昭和13年には、徐州占領、広東入城、漢口・漢陽・武昌の武漢三鎮の

占領など皇軍の華々しい戦果に国民は酔い痴れていた。

 私共は学校を卒業して、我も我もと満州に就職して行くものが多い時代で

あったが、私は祖父母が長崎に居た関係で三菱の長崎造船所に就職し、

軍艦の建造に心をとどろかせ、微力ではあるが産業戦士の卵として

活躍していた。

 
昭和15年、私は満20歳となって徴兵検査を受けた。
第二乙種合格で現役ではなかったが、第二補充兵で、在郷軍人として
 召集を待つ身となった。
時あたかも皇紀紀元2600年(西暦1940)の記念すべき年だった。
 
昭和16年初めには陸軍大臣の『戦陣訓』が示達され、日ソ中立条約調印、
独ソ戦開戦、南部仏印に進駐開始、米国対日石油禁輸発動、12月8日に
米英に宣戦布告し大東亜戦争が始まった。
 
ハワイ真珠湾奇襲攻撃、マレー半島上陸、マレー沖海戦では
 英国東洋艦隊旗艦プリンスオブウエルズと戦艦レパルス撃沈、などの
大戦果が報道され、これに合わせて各家庭にラジオが普及し、
軍艦マーチに続く大本営発表を、全国民がラジオにかじりついて聞き
皇軍の戦果に酔い痴れていた。
 
12月16日には世界最大の不沈戦艦『大和』が呉海軍工廠で竣工し、
25日には香港占領が報じられるなど、日本の全国民は皇軍の戦果に
ますます酔っていった。
 
昭和17年になり海軍の落下傘部隊がセレベス島のメナドに奇襲降下、
ラバウル占領、ジョホールバル占領、ラングーン占領、スマトラ全島占領、
バターン半島、ビルマのマンダレー、バターン半島、コレヒドール要塞、
ミートキーナ占領などの華々しい戦果が続き、国民はいやが上にも
戦勝気分で湧きたっていた。
 
私が勤めていた三菱長崎造船所では戦艦『大和』の姉妹艦の戦艦
『武蔵』が8月5日に竣工し、私は艤装中に何回も試運転に乗艦して
その大きさに驚いたものだった。
 
一方戦果のつづく中で、6月のミッドウエー海戦で大敗した事や
ニューギニア島のパサブア守備隊、ブナ守備隊などが報道されることなく
密かに玉砕し、戦果の放送が少なくなっていった。
 
昭和18年になると、ガダルカナル島の敗退や、アッツ島守備隊の
玉砕などが戦果の影で進んでいた。私も造船所に勤務して5年になり、
産業戦士としての技を身に付け12月には技師に昇格する予定でもあり、
建造される軍艦を駆けずり回って勉強していた矢先の6月に召集令状を
受け取り、佐世保海兵団に入団して、鹿児島の出水航空隊で新兵教育を受け、飛行機の整備兵の教育を受けて、第761海軍航空隊のマリアナ諸島の
テニアン島基地の配属となった。
 
昭和19年6月には、マリアナ諸島のサイパンとテニアンは米軍の攻撃を
受けていた。
 
7月7日には頼みの綱のサイパン島の守備隊が玉砕し、8月2日、
私どもは海岸の岩場まで追い落とされ、我がテニアン島守備隊も
玉砕したのだった。生死の狭間で不思議に私の命の糸は繋がっていた。
 
その後、8月11日グアム島の守備隊が玉砕し、11月には
761海軍航空隊の本体が転進していったペリリュー島の守備隊も
玉砕していった。
昭和20年になりテニアン基地から飛び立った米軍機が東京大空襲を行い、
小笠原諸島の硫黄島の守備隊までもが玉砕していった。
4月になると米軍は沖縄に上陸を開始し6月23日に沖縄戦は終結した。
この頃には日本中の都市の殆どが焼夷弾で焼かれ、国民の間にはひそかに
厭戦気分が広がり始めていた。
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 8月6日には広島市が原爆で被災し、9日長崎市がまた原爆で被災した。

なお9日には友好国だったはずのソ連軍がなぜか満州、樺太と

アリューシャン列島に侵攻を開始してきた。

 
かくして、昭和20年8月15日に大東亜戦争は終結し、
戦いは敗戦で終わり連合国に無条件降伏をしたのであった。

軍歌と私

軍歌は、私の幼少のころから青年時代にかけて、良く聞きよく歌わされ、

また良く歌ったものだった。

 
幼少の頃、夕方連隊の兵隊さん達が演習から帰る行軍の時に
皆で歌っているのを良く聞いていた。学生の頃には軍事教練があり、
 校外に演習に行き、その帰りには軍歌を歌わされていた。 
 
その軍歌には、ああわが戦友の『光にぬれて白々とうち伏す屍わが戦友よ』や、満州行進曲『勇士の骨を埋めたる忠霊塔をあおぎ見よ』歩兵の本領
『大和男と生まれなば散兵線の花と散れ』軍国の母『こころ置きなく
祖国のため名誉の戦死頼むぞと 生きて還ると思うなよ白木の箱が届いたら お前の母は褒めてやる』など死ね死ね死ねが続き『軍国の母』までもが
名誉の戦死を頼み、死んだら母は褒めてやるなど平時では考えられない
歌詞が多かった。
 
これは、人間そのものの思いではなく軍国主義の国家の政策の中で
国民が踊らされ、国民もそれに同調して踊ったからではないかと私は思う。
 
軍国主義の時代に教育されるとこの様になるのだろうか。
私も当時は確かに軍国の青小年だったと思うが、軍国主義の時代なればこそ、突撃して戦死すれば『勇ましく』考えられ、また、自分の事でなければ
『死』をじかに考えられず、その当事者以外から見ると『勇ましい』と
思えたのかもしれない。
 
昭和万葉集に『国民の無知なるひとりわれもまたへたなおどりを踊らされけり』とあるが私も全くその通りだったと考えている。
 
その頃、聞いたり歌ったりした軍歌には『戦友』が多かったと思っているが、平成の時代になった今その歌詞を読んでみると、私が体験したことが
そのまま読まれているようで心に強く突き刺さり、今では『戦友』は
声には出して歌えない歌になってしまった。
 
そもそも軍歌というものは、兵隊の勇気と武勲を称賛して、戦意を高揚し
鼓舞するためのものと思われるが『戦友』の歌詞だけは、兵隊の悲しい
心情を物語っているようであり、とても戦意の高揚というものではなかった。
 
死んだものは哀れで悲しいことであるが、また一方戦友を失って生き残った
ものも悲しく辛い思いを背負わされている。
 
以前私どもが『戦友』を聞いていた時はなぜ勇ましく聞こえていたので
あろうか。私も良く口ずさんでいたと思うが今の様に悲しい思いは
なかったと思っている。
 
その『戦友』は勇ましい唄に聞こえて悲しくは感じなかったのかもしれない。
 
私はその軍歌『戦友』の歌詞のままに戦地に行き戦友を亡くし、その
 戦友の遺骨を拾う作業をして、『戦友』の歌詞がそのまま
『私の人生が唄われている』様な気がするので、その歌詞と私の行動を
書き留めておきたいと思う。
 
          ここは御国を何百里 はなれて遠き満州の
          赤い夕日に照らされて 友は野末の石の下
          思えば悲し昨日まで まっさき駆けて突進し
          敵をさんざん懲らしたる 勇士はここに眠れるか
私は満州ではなかったが、南洋群島のテニアン島の第761海軍航空隊に
勤務していた。テニアン島はサイパン島の南約5キロにあり南北20キロの
小島で、米軍が日本の本土爆撃の基地にするために占領した島だった。
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広島長崎の原爆については良くしられているが、その飛行機の

発進基地がテニアン島だということはほとんど知られていない。

その島が米軍に占領され、守備隊の兵士が戦闘で弊れ多くの民間人が

巻き添えを食って死んでいった。

 
          ああ戦いの最中に となりに居りしわが友が
          にわかにはたと倒れしを われは思わず駆け寄りて
          軍律きびしき中なれど これが見捨てて置かりょうか
          「しっかりせよ」と抱き起こし 仮包帯も弾丸の中
 
昭和19年6月11日から米軍の攻撃が始まり7月7日には、目の前の
サイパン島の守備隊が玉砕してしまった。
その後米軍の矛先は我々の島テニアンに向かい、その戦いの中で多くの
兵隊が亡くなり守備隊は8月2日玉砕してしまった。
 
テニアン島の守備隊は約1万人で戦死した者は9千7百人、
実に97%が戦死し、生還した者はわずか3%に過ぎなかった。
その中の一人として私は生還したのだったが、その戦禍の中で多くの
仲間を失った。
 
また多くの日本の民間人も戦火に巻き込まれて亡くなっていった。
 
7月10日 同年兵山口万次の戦死の知らせがあった。
彼は燃料車の担当で第2飛行場付近の民家に退避していた。2日前、
 作業中に車から落ちて足腰の打撲で休養中に機銃掃射を受け被弾して
戦死したという事だった。
 
7月18日 マルポの菊池さん宅に退避して昼食後の一休みをしていた時、
敵機グラマンがいきなり低空で機銃掃射を浴びせてきた。
発射音より早く弾丸が飛んで来て屋根のトタン板を貫き数発の弾丸が
飛び込んできた。一陣の掃射で攻撃が終わり我に帰った時、
藤田が縁側に倒れているのが目に留まった。近付いてみると機銃弾が
頭の右上から左に貫通して完全に事切れていた。
夜になり仲間の手で畑の隅に埋めてやった。
 
7月30日夜 『司令部に集合』の命令でカロリナス台上まで上がった。
夜も明けて、31日敵の攻撃はカロリナスに集中し朝から偵察機が飛び
台上は平原で全く歩けず、中玉利、稲尾、徳永と私が壊れた民家で
退避していた時、いきなり付近で艦砲が破裂し、不意を突かれてギクッと
した。隣にいた徳永が足を抱えて呻いている。
見てみると足首に破片が突き刺さり端が少し出ていて血を吹き出していた。
早速止血をし二人で肩を組んでてそこを飛び出した。
そこを敵機グラマンに見つかり機銃掃射をくらい、ピシッ、ピシッと
弾が飛んでくるが当たらない時は狙い撃ちをされても当たらなかった。
 
夕方になり敵機が去って静かになり、徳永を背負ってジャングルの岩場まで
運びホッとして一息き入れた。
 
         折からおこる突貫に 友はようよう顔あげて
         「み国のためだかまわずに 遅れてくれなと」と目に涙
         あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
         それじゃ行くよと別れたが 永の別れとなったのか
 
徳永が苦しんでいるので一刻も早く野戦病院に連れて行ってやりたかった。
そこえ陸軍の兵士が通り掛かったので聞いてみたら『野戦病院は撤収されて
カロリナスには無い、衛生兵は何処に居るか場所が分からない』という。
徳永は出血で顔面は蒼白になり一歩も動けず、しきりに水を欲しがる。
そして『俺にかまわず貴様達は司令部に行け』という。
仕方なく、彼の水筒を水を出し合って一杯にしてやり、一個の握り飯と
敵を倒すために一発、自決するために一発、計2発の手榴弾を渡して
『靖国神社で逢おう』と言って別れたが、これが最後の別れとなって
しまったのであった。
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                    戦いすんで日が暮れて さがしにもどる心では

          どうぞ生きて居てくれと ものなどいえど願うたに
          空しく冷えて魂は に帰ったポケットに
          時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや
 
徳永と別れ、仲間3人で司令部を目指して歩いた。
夜のジャングルは全く歩きにくく、いつの間にか海岸に来ていた。
夜が明けて岩陰げに這入り、うとうととしていたら敵の砲艦がきて
『テニアン島占領』の放送を始めた。
遂にテニアン島は米軍に占領されたのだ。このあと我々は
どうすればいいのか。
 
日本の連合艦隊が全滅するはずがない。
『日本軍は肉を切らして骨を断つ戦法』を取っているのだと思いなおし、
艦隊は必ず来る、艦隊がきたら後ろから米軍を攻撃し死んでいった仲間の
敵討ちをするのだと考え、それまではジャングルに籠って頑張る事にした。
 
          肩を抱いて口癖に どうせ命はないものよ
          死んだら骨を頼むぞと 言いかわしたる二人仲
          思いもよらず我一人 不思議に命ながらえて
          赤い夕日の満州に 友の塚穴掘ろうとは
 
米軍侵攻前、作業の合間に『どうせ命はない、死んだら骨を』と
語り合った仲間の山口万次がたおれ、藤田輝雄もたおれハゴイの畑に
埋めてやった。カロリナス南部のジャングルで別れた徳永はその後
どうした事だろうか。
今となっては別れたあのジャングルに行く事も出来ず、如何んともし難く、
カロリナスのジャングルで赤い夕日の沈むのを眺め、死んでいった
戦友たちの事、帝国海軍の事、祖国日本の父母兄弟の事などに
思いをはせる日々が続いた。
 
その後、ゲリラとなってテニアンのジャングルの洞窟で過ごし、
援軍を待ったが、それは廃残兵生活でしかなかった。
ある時は食料捜しに行って待ち伏せにあい負傷をしたが運良く弾は
急所を外れて命拾いをした事もあった。
 
何時まで経っても頼みの艦隊は影も見せず、拾ってきた敵の新聞で
日本の敗戦を知り、昭和20年9月16日米軍に投降した。
 
 その後サイパン島の収容所に移されたが、これで何時の日か日本に帰れると
思いながらも、軍歌の『勝たずば生きて還らじと誓う心の勇ましさ』や
『夢に出てきた父上に死んで還れと励まされ』などの歌詞を思い出し、
負け戦をしておめおめと国に還れようか、また国民が受け入れてくれる
だろうかなどと悩む事も多かった。
 
しかしそれでも故郷は恋しく収容所の折りたたみベッドの上で帰る日を
夢見ていた。
 
その祖国帰還が現実のものとなり21年7月10日に復員船で鹿児島港に
入港し復員した。帰還した喜びは大きかったが、故郷の面影は全く
一変していた。鹿児島市内は敵の焼夷弾で焼き尽くされ山の中腹に
わずかな人家が残るだけになり、桜島の姿だけが昔を忍ばせていた。
 
また戦に負けて帰還したたものが拒まれることもなく、戦後の復興に
男手が不足していたのでかえって喜ばれ、なんなく故郷の人々に受け入れて
貰い、無事帰宅する事が出来て父母兄弟にあった時の喜びはひとしおで
あった。
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          隈なく晴れた月今宵 心しみじみ筆とって

          友の最後をこまごまと 親御へ送るこの手紙
          筆の運びはつたないが 行燈のかげで親たちの
          読まるる心思いやり 思わず落とす一しずく
 
サイパン島から復員したことが新聞に載り、問い合わせの手紙が多く
返事を書くのに忙しい日々を過ごしたが、山口、藤田、徳永の3人の
住所は記録はしていたが、あの戦火の中で紛失してしまい遺族の方に
報告出来ず誠に申し訳なく思っている。
 
そのごは山の中腹にわずかに残った我が家で戦災の復興と食糧増産に励んだ。
 
その中でテニアン戦が思い出され悪夢にうなされ悩む日々が続いたが、
結婚して子供もでき生活のために会社人間として夢中で働いた。
戦記物の本が売り出されそれを読むうちに聖戦と思っていた戦争が
侵略戦争だという事が分かってきた。
 
そして、時が経ち仕事に熱中するうちに悪夢はいつしか去り、
会社も定年退職まぎわの窓際族になった頃には、今まで悪夢の島だった
テニアン島がとても懐かしい島にかわり、昭和49年になって初めて
サイパン・テニアンを訪れて感動し、その後は毎年慰霊旅行が
できる様になった。
 
昭和59年からは厚生省の戦没者遺骨収集団に参加して本格的に
遺骨収集に専念出来る様になり、毎年お骨を奉持して帰還し、
 亡き戦友との『死んだら骨を』という約束の一部を果たした気持ちで
一杯である。
 
これが私が歩んで来た道の概要であり、軍歌『戦友』と場所こそ違え
同じ道を歩んだなー!、とつくずく思う次第である。
 
私は、軍歌『戦友』は凄い歌だなーと感動するとともに、戦没者遺骨収集に
従事出来たのも幸いだったと思っている。
 

大戦にたいする私の思い

昭和7年の盧溝橋事件により支那事変が勃発し満州事変に引き続いて

大東亜戦争に向かって国民は軍伐に踊らされ、それに乗りいい気になって

突っ走る時代であった。

 
私はその時代に生まれあわせて戦争に駆り出され多くの戦友を失って
生き残り、その後は会社人間として働き、退職後は厚生省の戦没者遺骨収集に参加して戦争の尻拭いをした。
 
お骨に対面して『水漬く屍、草むす屍、かえりみはせじ』と唄われた
世相であったが、当人はやはり死にたくない、親元に帰りたいと思っていた
事だろうと思う。
 
厚生省は昭和28年から戦没者の遺骨収集を始めたというが、それは、
現地を調査した程度で、40年代に入りようやく動きだし本格化したのは
昭和45年頃であった。当時は長野県の山岳会が協力して、
現地に無数に存在する洞くつや人の近付けない危険な岩場から遺骨を
大量に収集してくれたという。
 
私は昭和49年に厚生省が遺骨収集をしている事を知り、参加したくて
八方に手を尽くしたがかなわず昭和59年になりようやく参加できて
これまでに8回参加した。平成の時代に入ると戦争責任者がいなくなった
といわんばかりで、実施されたのは平成4年と6年でしかなく、
平成元年に実施されたのは昭和63年の年度の行事であった。
 
私は参加しなかったが平成7年にも行われているがなぜかその後は
多くのお骨を残したまま行われていない。
平成7年のサイパン島のお骨の収集率は50%未満でありテニアン島は
70%程度である。
 
 
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海軍の兵隊は認識は持っていなかったが陸軍の兵隊は持っていた。

その認識を毎回数個ほど収集し私も何個か収集し得意になったものだが、

その内どれだけが親元に帰られたのであろうか。

 

私の知る範囲では平成元年3月6日にサイパンのパーパコのラガサットで

収骨された愛知県一宮市の元陸軍兵長片岡義雄=当時(30)=だけで、

その他はどうなったものやら分からない。

 
最早終戦後65年近くになり戦死者の父母の世代はすでに他界し
兄弟とその妻も残り少なくなってしまい、英霊を祭るものも
 戦争を語るものも少なくなり、戦争の新聞記事や本も少なって、
いつしか戦争の事が忘れ去られようとしているが、如何なる事があっても
戦争だけはしてはならないと私は考えている。
 
政府は『備えあれば憂いなし』として再軍備を考えているようだが、
 『敵が攻めてくる』とはどんな事か先の戦争でよく分かっているはずである。
先の戦争で戦死したものは致し方ないとしても、銃後の国民も家は焼かれ
都市は廃墟となった事を忘れたのであろうか。
わが国には立派な憲法第9条がある。
如何なる事があっても『憲法第9条』だけは守らねばならないと思う。

死んで帰れと励まされ

 復員船で帰還の途中、住民を降ろすため沖縄の沖に停泊し、

次は鹿児島港だとのことで心が浮き立っていた。暫らくして

薩摩半島南端の薩摩富士と言われていた開聞岳が見えてきた。

 

陸上からは何回か見たことのある山であるが海上から見るのは始めてで

 あり付近に高い山は無く風情のある円錐形の山が聳え立っている。

修学旅行で登った当時が思い出され懐かしい限りである。

 
その後復員船は鹿児島湾の南に差し掛かり櫻島が見え始めた。
桜島を南から見ると幅が狭く急峻に見えその西側に鹿児島市内がある。
やがて谷山に続き次第に鹿児島市内が見え始めた。しかし驚いたことに
市内の家は殆ど焼けて所々に焼け残ったビルがあり、トタン板で囲んだ
小屋があり、そして山手に少しの人家が残っている程度だった。
 
復員船で見せてもらった戦災地図の通りで市内の殆どが赤く塗りつぶされた
焼失地帯になっていた。冷水町の我が家の付近まで赤く塗られており
我が家が心配だったことが思い出された。
 
懐かしい思いの一方で、頭の中では出征当時『死んで帰れと励まされ』
『死んだら母は誉めてやる』などと国を挙げての死んでこいの時代だった。
 
そのことが脳裏に浮かび、上陸したら『なぜ生きて帰ったのか』
戦で勝って帰ってきたのならば喜んで迎えても良かろうが、
 『戦に負けてよくも生きてのうのうと帰れたものだ』と責められ
袋叩きになるのではないかと真剣に考えた。
 
そして、上陸したら袋たたきになり生きては居れずまた市内には
居られないと思った。もしその時は霧島の山の中に暫らく隠れていれば
市民の心も収まるのではと真剣に考えたものだった。
 
それはマスコミが『政府の恩恵を得ようと考え新聞に書き歌を作り
国民に歌わせたまでのことで、最終的には『国の政策に踊らされたまでの事』であった。と私は思っている。
 
しかしよく考えてみると私が出征するとき、家族や親戚の者で私に
『死んで来い』と言った人は誰一人としていなかったのは間違いない事で
あった。 
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しかし、焼け跡の市内を見た時は懐かしさと戦争の凄まじさを

つくづく感じた。いざ上陸して見ると出迎える人は全く無く新聞記者が

一人いて、『何処からの帰還ですか、家は何処ですか』と皆に尋ねていた。

 

私は『市内の冷水町の金谷です』と答えると、それでは私が行って知らせて

あげましょうと言ってくれた。夕方になり収容所の門の外に家族が来ていて

懐かしい面会を果たした。

 

そして、家の下の家まで焼けたが我が家は残ったとの事で一安心だった。

家族に逢えてそれはそれは嬉しいことであった。

 しかし中の弟の繁は戦死したとの事であった。

私にも戦死の公報が来ており、先便で帰国した戦友に頼んで出てもらった
手紙で生きていることを知らされていたその私が帰ってきたのだから
親兄弟の喜びは大きかった事だろう。
 

申し訳けない事

和19年2月鹿屋航空隊からの戦地への出発の時休暇で帰郷した。

その時、父にバリカンで頭を刈って貰いながら『此の髪の毛を少し

取っといたら』と言ったら父は『その必要もなかろう』とのことだった。

が、後で良く考えると『髪の毛を取っといたら』というのは、私が死ぬと

言う事を意味しており父親としては認めがたい事だったと考えられ、

父はその必要も無かろう、と私が死ぬことを否定した言葉だったと思われる。

 

私の考えが足らず父に私の死を認めよと云わんばかりの言葉になったのは

間違いないことであった。この様な時には、私自身が髪の毛を少し紙に包み

仏壇の隅に黙って置いておくのが良かったのにと、今頃になって考える

始末である。

 

お父さん、本当に御免なさい。

 

日本刀は勇ましかった

休暇を終え隊に帰ったら日本刀を挿した者が多く、私の同年兵にも

刀を持って来た者がいたが、その同年兵は代々家に伝え残されたものを

持ってきたと言う。その姿は勇ましいなー、これなら戦いに勝てると

思ったものである。私は今までにチャンバラ映画を好んで見ていたが

それが現実のものになり頼もしいなーと思えた。

 

然し実際に戦争が始まると飛行機から狙い撃ちをされ、

 軍艦からは処かまわず砲弾を打ち込まれ、戦車は隊列を組み

付近一帯を撃ちまくってから前進してきた。

そして日本兵はその弾に当たって死んでいった。

昔の様な一騎打ちの戦いは全く無く兵隊たちは流れ弾に当たって

死んでいった。

 
敵が上陸した2~3日後陸軍の兵士が通りかかり
『今敵の斥候を叩き切って来た』と言い血刀を振るっていたが
敵には斥候などは居ず、最前線は戦車で前方を撃ち払い、日が暮れて
夜になったら、針金を横に張り空き缶に小石を入れて吊るしたものを
り巡らし各所にマイクをしかけ後方に下がって寝ている。
もし敵が針金に触るとカランカランと音がして直ぐ戦闘態勢が取れるように
して寝ていたので斥候など必要ない存在だった。
陸軍兵士の刀の血は犬か豚を切った血ではなかったかと
今になって思う次第である。
 

痛かったら生きている

敗残兵時代、昼は洞窟で寝て夕方から起きて飯を炊き食事を済ませ

食料探しに出るという日課が続いていた。食料探しに出たある日、

私は負傷したがその様子は『戦塵の日々』に書いている。

 

 

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 負傷した当時、傷の痛さに耐えかねて意識朦朧となりあの世と

この世の間を行き来していた時、祖父や親兄弟の顔が走馬灯の様

現れる中で『おい金谷、痛かったら生きているぞ、逃げろ』との声を聞いた。

はっと正気を取り戻して我にかへり、足と腰それに背中の痛みを感じて

夢中で走りその場を逃れた。

痛かったら生きている逃げろは誰の声だったのか。

 
今考えると『亡き戦友たち』ではなかったのかと思うようになり、それは
亡き戦友たちが『死んだ者たちのことを伝え残してくれ』との願いが
込められていたものと思われた。そして私はあの世に行きかかったが
運よく助かり僅か3%の生還率の中に入り帰還できたのだった

亡き戦友の伝言

復員後は夢中で働いた。疲れて夜寝ると必ずといっていいほどテニアンの

悪夢を見た。そしてその夢は何故か同じ内容の夢ばかりで同じ夢を繰り返し

見ていた。このことは「戦塵の日々」に記載している。

 
 その悪夢のことを僧職の者が多い戦友会の集まりで話したら、それは
亡き戦友が『亡くなった者のことを伝え残してくれ』と忘れないように
夢で訴えたのだと言ってくれた。そしてその後は慰霊に赴き政府の
遺骨収集団に加わり収骨に勤めた。
そして何時しかその悪夢は見ないようになった。
 
何故かその遺骨収集も平成の時代には少なくなり、平成7年以降は
戦死者数の半分以上を残したまま行なわれていない現状である。
 
弾を背負って歩くのがつらく戦友に剃刀の刃で切って出してくれるように
頼むが誰一人として切って取り出してくれる者は居なかった。
その兵隊たちは何れも殺人や人殺し専門の兵隊達で戦いに勝つためには
人を殺さねばならなかった。その彼らが皮膚を1センチ程度切って弾を
出してくれる者はいなかった。
 
今では通行人を簡単に殺し、殺したかったから殺したと言い、
中には娘が母親を殺し、子供を生み育てる母親が我が子を殺すなど
考え及ばぬ事が起こっているが、教育のせいか世相のせいか、
これは如何したことかと思い悩むことである。
 
 

人間の性格

 テニアン島で投降後、米軍の好意で海水浴に連れて行ってもらい、

帰りにはビールを貰ったことは戦塵の日々に記しているが、

 当時の収容所所長のシュナイダー大尉は東京神田の生まれで非常な

親日家であった。

日本軍の時代は海水浴などトンデモナイ話だったが、その海水浴に

連れて行ってもらいビールまで貰ったことが思い出された。

此のことは戦塵の日々に記している通りである。

 
また我々と前後して投降した一人の兵が、『試しに出るが若し嫌になったら
ジャングルに返してくれ』と収容所長と約束して一時投降したが、
ジャングルに残った友のことが忘れられず『帰してくれと』頼み
ジャングルに帰してもらった話がある。
収容所の所長のシュナイダー大尉は本人を呼び何回も説得したが、
本人の意思は固く帰すことになった。
ジープで山裾まで行き、そこで本人を下ろし食料に缶詰2ケースを渡し
『ジャングルが嫌になったら何時でも出て来いよ』と約束して分かれたと
いう。殺すか殺されるかの敵味方の兵隊同士であるが、約束したことが
実行されたと言う戦中の美談であった。
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ある日作業に行き休憩時間にアメリカの番兵を囲み彼の話を

聞いたことがあった。彼は『何処何処の生まれで家は農家で牛が何匹、

鶏は沢山いたと言い、写真を出してこれが自分の家族で妹はもう何歳に

なっているはずだ。自分も家を出てからもう3年になるが一度も

帰っていない、早く帰りたい』と言っていたが、彼等も人間で我々日本兵と

全く変わらない事が良く分かった。

 
サイパンの収容所に移されたある日、収容所の所長に沖縄戦に参加し
部下が全部殺され一人だけ生き残った将校が所長になったことがあった。
部下が皆殺しになった士官が収容所の所長になったので、日本兵が
憎らしく収容所の日本兵に当たり散らし、8時間の作業時間も9時間から
10時間に延ばされ我々にはつらい毎日が続いたことがあった。
これも戦争がもたらしたことであると我慢して働いた。
 
また昭和21年7月、私共第二陣の帰還のおりに日本びいきの収容所長は、
お前たちは国に帰っても昔の日本ではなく、主要都市は焼夷弾で焼かれ
物資が非常に不足しているから支給品はなるべく良い物と交換して持って
帰れと言われ、ウール100%の毛布やズボン、シャツなどを交換して
持ち帰った。
 
それに引き換え鹿児島の復員局では持ち物総てを中古の夏服やスカスカで
先の見えるボロボロの毛布と交換されてしまい、サイパンの収容所長の
好意で交換してきた優良品は総てボロボロのものと変えられた。
その換えられたものは復員局の職員の物になったとしか思はれない。
 
最も重要なのが給料である。『取り敢えず一人三○○円ずつ支給給する。
整理が済み次第残金は清算し送付する。警察沙汰で行方不明になる事
の無いよう注意しろ』とのことだった。
 
その後何回か市役所に行って聞いたが『待つとれと言われたのなら待つとれ』と云うばかりで埒があかない。
何十年か経ち平成4年に何等かの用事で行政監察局に出向いたとき、
未払い給料の話をしたら『早速調べます。明日電話で返事をします』
との事であった。
翌日電話で『請求の無い軍人の給料は昭和25年に支給打ち切りに
なっています』との事で、如何すればよいですかと問うと代議士に相談し
議員立法をして貰うしかないという事であった。
 
今なら『勤労奉仕やボランティアでも交通費はもらえるぞ』
と云う人がありそんな兵隊に良く行ったものだといわれるが、何とも
致し方のないことである。
 
また、軍人恩給は加算を含めて12年から貰えるが私の場合は
加算を含めても10年で2年不足して貰えない。
ところが公務員はその10年分を何らかの形で貰っているようである。
 
これも私が大学に勤めて初めて分かったことである。
 
こういうところに官民格差がうかがえ、そしてそれは今でも
続いていることである。 

米軍の律儀な行動

復員後暫らくしたある日、米兵が通訳を連れて来宅して復員時に

サイパンの収容所に居た当時に働いた金の証書を持っているはずだ、

それを日本円に換えてやると言う事だった。

私は近所の銀行員が日本円に替えてやると言うので替えて貰ったと言ったら、

それではその家を教えろと言うので其処まで連れて行ってやった。

米軍はわすかな金だったがその証書を取りに来たのである。   

その律儀さに驚いたものである。
 
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復員当時は食料品不足で配給だけではとても足りず、衣類を持って

田舎に買出しに行き米と交換する事が多かった。運の悪いときは駅で

取り締まりに会い交換してきた米を没収される事が続いた。

 

その後は取締りが有ると没収される前に折角交換して手に入れた米を

鉄道線路の砂利の上にばら撒くことが起こった。ばら撒かれた米は

砂利の間に入り込み下に落ちて拾えなくなった。

そして当時は食糧難で命を縮めた年寄りが多かった時代でもある。

 

亡き戦友の声

私は今『痛かったら生きているぞ、逃げろ』との声や、

ある和尚の多い戦友会で、復員当時毎日見た悪夢は、

『亡くなった戦友たちのことを伝え残してくれ』と言われ、

その事が頭から離れず毎日戦争や遺骨収集のこと等を思い出して

それに浸っている。

 
平成20年9月14日 NHKスペシャル 
 兵士はどう戦わされてきたか 戦場で反射的に人を撃つ実践訓練
▽帰還兵を襲う異変 ▽心に残る傷跡 と題してアメリカ兵が戦場で
敵を銃撃して殺しその後遺症で精神を病むとの事であったが、主として
敵兵と対面し銃撃して殺した者の事で、大砲や爆撃などで殺したのとは
違うようだ。
日本兵は満州事変や支那事変などでは大量の支那兵や民間人を虐殺し、
中には子供を上に放り投げそれを銃剣で刺し殺したとか敵兵に
目隠しをして刀で首を切り落とした言う話をよく聞いたものであるが、
日本兵の方がアメリカ兵よりも残忍な様な気がする。

国の戦争に対する反省

考えてみると日本の国の戦争の跡始末が全くなされていなかった事に

尽きると思う。戦犯を靖国神社に祭り、昭和天皇は参拝を止めても議員等は

堂々とお参りをする等、っての外の事だと思う。

これを改めなければ何時までたっても立派な国家にはなれないと私は

思っていますが如何でしょうか。

最後に集団自決か

8月1日、海岸に追い落とされ飲まず食わずでジャングルに戻る時、

岩場の洞窟に10数人の兵隊の死体を見た。

又遺骨収集でカロリナス岬で数体の遺骨を収容した事があった。

 またその後遺骨収集や慰霊旅行でカロリナス台上を歩いていて

遺骨に出会うことは殆ど無かった。 

 
戦史によれば『日本軍は8月1日洞窟を飛び出して総突撃を慣行2日朝
玉砕した』となっているので周辺には多くの遺骨が散乱している筈であるが
我々が歩く範囲には殆ど遺骨は無かった。
  
また厚生省の記録によれば昭和28年から45年にかけてサイパン島
5848柱、テニアン島2446柱が収骨されている。
よく考えてみると洞窟の日本兵は米軍の火炎放射器で焼かれ、それでも
生き残った者は洞窟内で集団自決をしたと考えられる。
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島民から聞いた話では以前、長野県の山岳会が来て洞窟を主に

沢山な遺骨を収集したと聞いている。それは厚生省記録のテニアン島

2446柱の遺骨ではなかったかと思う。

この件については長野県の山岳会に聞いてみる必要性があると思う。

 
これ等を考えると、何れも隊長命令で自決したものであると考えられた。
当時は海岸の洞窟の遺体を見て此処に来れば銃が手に入るとしか
思わなかったが、今考えると海上の艦から見える処でなく、ジャングルの
上からも見えない絶好の隠れ場所であったが、よく考えると隊長の自決決行
以外にないと考えられる。
 
又遺骨収集である時カロリナス岬で遭遇した遺骨も場所柄から
此処で戦があったとは考えられず、今考えると自決としか思われない。
 
私は今までに沢山なお骨を収容してきたが、海岸の洞窟やカロリナス岬の
遺骨、海軍の司令部や通信隊の洞窟何れ集団自決だと今考えるように
なった。

私が生き残れたわけは

昭和19年6月11日に米空軍のテニアン・サイパン両島

攻撃が始まってから殆どの兵が戦死をしたが、私が生き残れたのは、

 隊長の性格が作用したと今私は考えるようになった。

 
我々の隊の長は戦争になる前から彼女の傍から離れず彼女の家に
寝泊まりをし、戦争が始まってからは本隊より一歩後方に避難し、
我々がマルポーの菊地さん宅にる時、彼はカロリナスの洞窟に退避し
食事を3度3度運ぶまでになっていた。
 
残された下士官も隊長がいないからと何も指示できず、ただ、うろうろ
するばかりであった若し隊長が我々と一緒にい行動を共にし、
 最後に『自決だ』と言われたら我々には逃げる事も隠れることも出来ず
自決に巻き込まれたことと思う。
若し逃げたとしても隊長は拳銃を持っているので射殺されたていたと
思われる
 
こう考えると隊長の考え一つで何でも出来たが、その隊長が先に
逃げていたので指示が出せず、我々は助かったのだと今始め
思うようになった。
 
また、昭和19年7月31日カロリナス台上の海軍司令部の洞窟に
集合の命令を受け、台上に上がり司令部の洞窟を探すが探し出せず
海岸まで降りて占領された事を知ったが、若し司令部を探し出し
合流していれば『集団自決』に巻き込まれたのは必然であった。
 
こう考えると私が生き残ったのは『亡き戦友に支えられ、神仏に守られ
生かされている』感じである。
 
まらない事を書きつらねたが、思い余って書いたものである。
このことを考え戦争だけはしてはいけないものだという事を強く
認識して欲しい。
 
書籍のIT化を記念し、テニアン島の玉砕日に筆を置く。
 
平成21年8月2日               金谷 安夫 記
 
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                            おわり