1944年6月15日 サイパン米軍上陸

1944年6月15日の朝7時、アメリカ軍は西側の海岸

(オレアイ、ススペ海岸)から上陸を開始。

9時ごろまでの間に上陸用装軌車(LVT)が300以上、島に近付き

そこから8000人以上の海兵隊員が上陸用舟艇に乗り換え

サイパン島に上陸したそうです。

 *上陸する方もさぞや怖かったのではないだろうかと思うんです。

 

菅野静子氏は著書の中でこのように記述しています。

 

海には、敵の大形輸送艦がもう珊瑚礁のすぐ近くまで来ている。

その大形艦の艦首からちいさな舟艇がたくさん出てきた。

兵隊達がそれに飛び込む姿まで見える。舟艇はみんな白い航跡をのこして、

一列艦隊になってまっしぐらに陸地を目指して進んでくる。すごく速い。

 

そして、サンアントニオ、チャランカ、オレアイ地域から上陸を開始。

米軍の攻撃は朝08:30から開始された。

 

マリアナ諸島がアメリカ軍の攻略目標になったのは

燃料の積み替え無しで戦闘機が日本本土を攻撃し又

戻ってくることが可能な位置にあったからです。

これはB29の完成が大きく影響したようです。

 

 

 

 

 

現在、チャランカノアにあるマウントカーメルスクールは

当時、島の主産業であった砂糖工場がありました。

この砂糖工場も米軍の攻撃で炎上しあたりいったいは

焼け野原と化しました。

 

 

 

当時のガラパン町は1丁目から4丁目まであり、

碁盤の目のように綺麗に区画整理されていたようです。

当時の地図を見るとそこは立派な商店街です。

これらが全て破壊されてしまったのですね。

当時の地図からお店屋さんをひろってみました。

 

島田商店(パン屋さん)            松本コーヒ店

渡辺八百屋                   細田肉店

宏彰堂(時計、めがね店)          小田電気工業(ラジオ、無線)

小林自転車店                 三五屋(南洋みやげ)

小林旅館                    太田菓子店

井村商店(百貨)               カトリック修道院

大洋商店(百貨、貿易)           南洋貿易支店(百貨、貿易)

菊池商店(百貨)               田島商店(米柄、泡盛)

南興水産氷販売所              高橋食料品店(乾物)

不知火屋(食堂)               サイパン劇場(映画)

宮坂理髪店                  加藤かばん店

内田自転車                  山村商店(米柄、雑貨)

便利屋(八百屋)               大島商店(雑貨)

保険堂(時計、貴金属、レコード)     大川薬局

遠藤商店(金物)               埼玉屋(洋服)

南国(カフェ-)                 二関物産展(南洋土産)

歯科(氏名不詳)               佐藤タクシー

松本自転車店                南洋貿易社宅

三陽商店(本、雑誌)            大村時計店

玉置商店(コプラ、青果)          菊池鉄工所

大黒湯(銭湯)

この他にも小形牛乳店、八千代料理店、六車商店など

地図上に記載されています。

戦火を逃れ生き延びることが出来た人々はこの焼け野原となった

ガラパンの町を見て絶望、落胆、、どんな気持ちだったのか

想像を絶します。

又、己の手で崩壊させた町並みを、装甲戦車の上から眺めていた米兵の心。

彼らの心の中では何を思い、考えていたのでしょう。

続く逃避行

当時、サイパン女学校の生徒さんだった佐藤多津氏の著書より

 

ここからカラベラまで大体2キロと聞いていましたが、そこまで敵が来ているとの

情報でした。

いつまでもここのはいられない、ハナチルザンの海岸に洞窟があるから今晩移動しよう。

夕暮れになるのを待ち移動を始めました。

月夜ではありましたが、ジャングルからジャングルへと道なき道を相変わらずの

照明弾に行く手を阻まれての移動でした。

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大きな岩がたくさんある間を入っていくと、洞窟が見えてきました。

入り口は幅2メートルくらいありそこには2.3人の男の人がたっていました。

私達を見つけ「ここはいっぱいでは入れませんよ」と言った時、

洞窟の中から「君が代」の歌声が聞えてきました。

 

中は軍人と民間人が入り混じっているようでした。

そばの人に聞くと「本日で内地との通信が切れた、最後に陛下より

一兵たりとも死守せよ、との命令があり民間人と軍は別行動を取ることになった」

とのことでした。

入り口の近くで御真影を焼いているのが見えました。

赤ん坊を殺せ

君が代を合唱している時、私達の後ろについてきた知り合いの父親が

4,5際位の一番小さい男の子を抱きかかえると「父ちゃん達もすぐ行くから

お前先に行け」と言うが早いがその子を荒海に放り込みました。

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逃げ歩くのに足手まといになる幼い子供達は、いろいろな形で

大人たちの犠牲になりました。

ある洞窟では24,5歳の母親が赤ん坊に乳を飲ませていましたが

乳がでないので赤ん坊が泣き出しました。

すると兵隊が「赤ん坊を泣き止ませろ!敵の電波探知器に聞えたらどうするのか、

数十人の命とどっちが大切か!赤ん坊を殺せ」と、怒鳴りました。

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怒鳴っていた兵隊はいきなり母親から赤ん坊をひったくり外に出ました。

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兵隊は空手で戻ってきました。

 

自ら青酸をわが子に与え、自分も自決する。

そういう痛ましい話が現実にあちこちで起きていたのです。